大井川通信

大井川あたりの事ども

『日本人の思考』 苅谷剛彦 2025

『誤読と暴走の日本思想』に続いて、欧米の文化に接ぎ木された日本人の思考の問題点を抉り出す本を読む。ちくま新書の新刊でこちらも積読せずに、一気に読んだ。

副題が「ニッポンの大学教育から習性を読みとく」となっている。著者は教育社会学の権威であり、『誤読と暴走』のような言葉が暴走し踊り出すような派手さはない。

ただし、この本でも、自分の研究者としてのキャリアを振り返り、実際に自分が論文を書く現場に立ち返って、日本の大学における思考の習性を読み解いていく。『誤読と暴走』と同じく、「私」を主語に私的経験を語り始めるのだ。おそらくここが肝心なポイントなのだろう。まずは、自分にしっかり立ち戻らないと、この国の風土では地に足のついた思考を始めることができない。

著者は、日本の大学は翻訳語でできている、という大胆に指摘する。難しくて「ありがたい」翻訳語が支配的になるために、中途半端な抽象的レベルでわかったつもりになってしまうという「エセ演繹型思考」が広がっていく。するとモノの直の観察から出発する帰納的思考がおろそかになってしまう。

ここで著者が例に出しているのが、近年の日本の教育界で、帰納的思考の育成を図るはずの「アクティブラーニング」が、何やらありがたい理論としてエセ演繹的に導入されたという皮肉めいた実態だ。このあたり、教育行政で仕事していた時に、何よりも腑に落ちなくて勉強仲間の大村さんとさかんに議論したところだから共感できる。

本書には、著者が実際に大学の「大衆化」をめぐる論文を構想する途中経過を織り込みながら、翻訳語を使うことの問題点や、日本の高等教育の歴史における様々な論点が描かれていて興味深い。

自分も関係のあることでは、日本の高等教育の拡大が、きちっとした理念なく国家にとって安価に行われたために、60年代後半の私立大学の膨張によって担われ、大講義室の劣悪なマスプロ教育を生み出したという指摘だ。

僕は、1980年に都内の私立大学に進学したのだが、その教育環境の貧弱さには唖然とした。大学とはもともとこんなものかと思ったが、当時のマスプロ教育は実はまだ成立して間もない歴史的産物だったわけだ。あれから40年経った今ではかなり改善されると聞くと、恨み言でもいいたくなるが、後輩のために喜ぶことにしよう。

全体を通してみると、堅実な論述の中に、日本の大学における思考の習性についてかなり根底的な批判もあって、大学関係者でなくても最後まで面白く読むことができた。『誤読と暴走』とともに、自分の問題を考えていく現場でも武器になる本だと思う。