地元の街づくりのイベントで怪談を話すことになった。知人が企画するイベントで協力を求められたのだが、僕の方も大井川歩きでの実体験をベースにすれば「怪談」を作れるという目算があったのだ。手作りの紙芝居を使うことができるだろうし、それは大井川歩きの活動の一環にもなるだろう。
それで、実際にそのイベントの怪談話者を何とか演じることができて、イベントも成功したので良かったのだが、準備は予想以上に大変だった。また、当日のイベントで感じるところもあった。それを書きとめておきたい。
まず、準備段階のこと。
地元ではかろうじて平家の落人の墓として伝えられるヒラトモ様について、実際はどうだったのかを説明する紙芝居はある。近代化に翻弄される小さな神様の物語ではあるが、ホラーではない。ヒラトモ様発見直後の母親の詐欺被害は、自分の中ではつながりがあって恐怖を感じさせたのだが、第三者的には両者のつながりが弱い。
勉強会仲間の吉田さんと、職場の同僚の田中さん、中村さんの助言を受けて、怪談として説得力のあるものにすることができた。最後には、妻と次男からのアドバイスも受けた。
吉田さんは映画関係のプロだが、アドバイスを聞くとあらためてホラーの教養に感心した。職場の中村さんはテレビの怪談シリーズのファンということで、恐怖を演出するための決定的アイデアをもらえた。妻は怪談が大好きで日常的に聞いているから、その助言は信用できた。
僕は妙に偏屈で自信家なところがあり、ふだんあまり人の意見に耳を傾けない。しかし、怪談の準備段階では、自分がまったく思いつきもしないような優れたアイデアを他者から次々に与えられて、共同学習や対話的学習の有効性を、ほとんど初めて身をもって知らされた。何よりみんな怖い話が好きであり、そうでもない自分は全くの素人として謙虚に臨まないといけないという自覚をもつことができたのがよかった。
次は、イベント当日のこと。
駅前広場のベンチの座布団に座り、蝋燭型の照明が点在する駅前広場の一角で、周囲の50名くらいの聴衆相手に、6人の話者が順番で怪談を話した。雰囲気は予想以上に良かった。僕以外は、自分の恐かった実体験を自分の肉声で語るという自然なスタイルで、芝居がかった組み立ての怪談話は僕だけだったと思う。
おぼえている範囲でいうと、老人施設でお年寄りが落ち武者の幽霊を見て、そこに「霊道」が開いていたという話。お祓いによって幽霊は現れなくなるが、その施設の場所は、後日、霊能力のある人からも「霊道」があると指摘された。また、金縛りにあった話。女性の手だけの幽霊に足を握られる。また、金縛りと同時に不審な女性からの電話を受ける。防いだのは盛り塩。神も仏も信じないけれど、奇妙なモノだけは見えてしまうという話。事件の直後の現場を車で通ったときに、全くその事実を知らずに被害者のイメージを見ていたという。神職の家に生まれた男性が、幼児の頃、ビニール袋に包まれた半身の死体を見つけてしまい、家にまで死体に追いかけられた話。親戚の霊能者によってお祓いを受けることで、奇妙な霊の呼びかけを最後に救われたという。
かなりいい加減な要約で話者の方々には申し訳ないが、この少数のサンプルでも、人々が怪談(怖い話)として認識し、またそう期待する話の型を知ることができるだろう。
この世界には、奇妙なものが存在し、それは犯罪や事故のような明確な原因を持っているかどうかは別にして、この世のものに対する悪意や恨みや攻撃性を持っている。そういうモノに対する出会いは偶発的な事故みたいなものであり、お祓いやおまじないなどの外在的な手段によってかろうじて助けられるしかない。
奇妙で悪意をもったモノを包摂する超越的世界に対する信頼(信仰)はここにはない。だから、その攻撃を防ぐのは、これも我々の世界の外部にあるような理解不可能は秘術であり、われわれ人間からの積極的な対話や働きかけは想定されていない。
一方、ヒラトモ様の世界観が怪談と一線を画するのは、この神の怒りと不満が、人間たちが集団で行ってきたことの総和によるという因果関係であり、我々の側の自覚(紙芝居の語り)によって和解できるという物語構造にある。
ところで、僕は、近頃の怪談ブームにこそ関心がなかったが、昔からホラー映画やホラー漫画を愛好していたことを思い出した。ブログの早期のカテゴリーに「恐怖と事件」があって、実際に凄惨な事件が起きた現場を見て歩くことさえしている。自分が恐怖マニアであることをすっかり忘れて、怪談イベントに参加したというのが、いかにも間抜けな僕らしくて面白い。
今回の怪談話をきっかけにして、スピリチュアルブームとの関連で怪談の流行についてあらためて考えてみたいと思う。