大井川通信

大井川あたりの事ども

屋根の上の恐怖

先日来た台風で、この地域では久しぶりに強風が吹いた。そのあと数日して、何気なく見上げると家のテレビアンテナが倒れて、ワイヤーでかろうじて屋根の斜面にぶら下がっている。やれやれ。大手の電気店に聞くと、アンテナ交換になれば4万円くらいかかるという。それならとネットで安値を売り物にしている業者に電話すると、いきなりやってきて、勝手に他のアンテナまで交換する10万円の見積書を置いていった。しかも、火災保険会社に嘘の申告をする詐欺まがいのアドバイスをしてくる。やれやれ。

それでしばらくほうっておいたが、そういうわけにもいかず、初めの電気店に工事を予約した。以下は工事に立ち会った妻の話。

良心的な業者さんが来てくれて、アンテナを交換せずに設置台(屋根馬というらしい)の交換だけで1万程度で済んだ。ただ、屋根から降りてきた業者さんが、変なことを聞いてくる。「隣のお宅は、おばあさんが独りで住んでいるんですか?」屋根の上での作業中、人気のない隣家の窓に老婆の姿が見えたらしい。

「いや春には家族が引っ越して、売りに出ているから空き家ですよ。本当ですか」

それを聞くと、業者さんは、きまずそうに言葉をにごしたそうだ。

 

『月と六ペンス』 サマセット・モーム 1919

読書会で『月と六ペンス』を読んだ。こういう機会がないと、確実に生涯読むことのない作品だ。モーム(1874~1965)が想像より現代に近い作家であること、とても面白い短編を書いていること、など知ることもできた。若い世代が中心の読書会なので、彼らの本の読み方、読書会という場でのふるまい方も興味深い。おじさんたちの世代のそれとはまるで違っていて、感心する部分が大きい。僕たち(以上)の世代は、そういう場では精一杯背伸びをして、とがった自己アピールをしがちだ。以下は、そんなおじさん世代の宿命を帯びた課題レポートの抜粋。

 

登場人物たちの関係は以下のようになると思う。
ストリックランド: ただ描く人/解釈や評価は苦手
ストルゥーヴェ : 下手な描き手/優れた評価者
批評家たち   : 専門的で権威的な解釈者。芸術的天才を捏造する。              語り手     : 表現力も評価力も中途半端。芸術家の天才物語を捏造する。
夫人、隣人たち : 物語の消費者。あるいは、作品の寄生者。

物語は、ストリックランドの死後、彼の芸術家としての評価が確立された後から回顧される。平凡な株式仲買人である彼が、専門外の場所から既存の芸術の更新者として登場し、ジャンルを活性化させる。批評家たちは彼への評価で自らの権威を守り、新たな天才の登場に市場も湧く。凡庸な書き手たちが、大衆向けに天才の物語を執筆し、それが喜んで消費される。一見、孤高の天才の人生をロマンティックに描きながら、20世紀的な「芸術」の生産と消費の仕組みを冷たく突き放して描いているようにも読めた。

また、形式上は平凡な書き手による物語なのだから、それでいいのかもしれないが、最後のタチヒの部分は緊張感がなく、全体のバランスを悪くしている気がする。ただし大衆的な物語としては、前半の主人公のむごい所業が、最後の悲惨な死でつり合いが取れているのだろう。もし強情で健康のまま名声や富まで得ていたのなら、人気小説として成立したのだろうか。

21世紀に入って、われわれ誰もがストリックランドに近づいている、と思うがどうだろうか。別に定職をなげうって寝食を犠牲にしなくても、好きなことができる。賞賛や天才の称号すら、容易に調達できるから、それに振り回されることも少ない。

 

懸造は岩壁にはりつくバッタである

宇佐神宮から内陸に入ったところに院内という町があって、そこには町のいたるところに大小の石の眼鏡橋がかかっている。その町の山深い集落に、龍岩寺がある。僕はこの寺が好きで、若いころから何回もお参りしてきた。

狭い石段を登ると、小さなお寺の建物があって、その脇を抜けると急峻な山道となる。やがて山林越しに岩壁を見上げることができるのだが、張り出した岩壁の下のくぼみに小さなお堂がすっぽりとはまり、床下から伸びた何本かの細長い柱で高く支えられているのが目につく。鎌倉時代の重文奥院礼堂だ。柱のすぐ下の岩場には、一木の階段が、端から端まで斜めに差しかけられている。

懸造(かけづくり)という岩壁の洞窟に建てられたお堂では、鳥取県の国宝三仏寺投入堂が有名だ。僕も一度急な山道を登って、断崖のくぼみに投げ入れたような見事な堂の姿を見に行ったことがある。龍岩寺はロケーションでは及ばないが、個性的な建物の魅力では負けていない。何より木彫の大きな三体の仏様が堂の内陣である岩陰に鎮座していて、間近く参拝できるのがいい。三体とも岩に彫られた摩崖仏のようなおおらかな姿をしている。

懸造は、立地にあわせて少数の軽い部材で組み立てられ、白木の軽快な姿が自然によくなじんでいる。長短の細長い柱をのばして岩壁にはりつく姿は、バッタが手足をのばして踏ん張っているようだ。他の古建築が重厚感や飛翔感を表現しているのとは違い、昆虫が岩場に飛び移った一瞬のような、不安定な瞬間を永遠にとどめるつくりといえるだろうか。古建築の匠の技術と創造力には驚くばかりだ。

 

『魔障ヶ岳』 諸星大二郎 2005

考古学者稗田礼二郎が活躍する漫画「妖怪ハンター」シリーズの一冊。出版当時読んだときは、ラッパーの教祖が出てきたり、旧石器ねつ造事件を話題にしたりと、ストーリーもとっちらかった感じで、あまりいい印象ではなかった。そう思ったのは、物語の中心にすえられた「モノ」の意味合いがよくわからなかったためでもある。今回『やまとことばの人類学』を読んでみて、コトとモノの本来の含意が、常識とは全く違っていることを知り、あらためて読み直してみた。

稗田たちは、山中の祭祀遺跡の調査に向かう。そこで不可思議な体験をして、岩陰のモノに出会い、名をつけるように促される。「魔」と名づけた若い考古学者は、新発見に取りつかれて不幸な最期をとげる。「神」と名づけた修験者は、霊能力を身に着けて、多くの人にその力を与えるが、事故死する。死んだ恋人の名をつけた女性は、恋人(モノ)との生活を再開するが、やがて破綻する。名をつけることを拒んだ稗田には、モノがモノとしてつきまとったため、魔障ヶ岳に返そうとする。

『やまとことばの人類学』では、モノとは、恒常不変の神の原理や世間一般の法則をあらわすものだった。諸星の作品では、作中で折口信夫の説を引用して、古代人の信仰の対象は「かみ」「おに」「たま」「もの」に分類され、モノとは具体的な姿のない抽象的で霊的な存在、と解説している。いずれにしろ、単なる物体に貶められて、なんとなくコトよりも格下であるかのように扱われる現代のモノではない、もっと中心的で自ら力をふるうモノを描いているのだ。

「稗田のモノ語り」を副題とするこの作品には、古代祭祀、修験、新宗教、名づけと存在等々、大井川歩きの身近にあって興味があるテーマが満載である。再読しても相変わらずストーリーは謎めいているが、諸星の想像力は大切な何かをつかまえているという気がした。

 

テッド・チャン その他の短編

あなたの人生の物語』を含む短編集(2003  ハヤカワ文庫SF)について、再読に備えての覚書。一読後のメモのため、間違いや誤解を含む。

◎『バビロンの塔』

バベルの塔が完成し、天に届いたという幻想的な設定を、天の表面を「掘りぬく」ために塔に登る鉱夫の視点からリアルに描く、奇妙な感覚にとらわれる作品。結末の「現実」への回帰もよい。 

◯『理解』

植物人間状態であるホルモンを注入されたために、知的能力を増強されて、やがてその臨界を超えるまでに至った主人公の行動と、もう一人の臨界超越者とのいわば「天上の」戦いを克明に描いて手に汗握る作品。「ひとつで全宇宙を表現する巨大な象形文字」という『あなたの人生の物語』につながるアイデアも含む、近未来的な着想の嵐。

△『ゼロで割る』

スタイリッシュだが難解。そのため読了後もカタルシスはない。9個のパートの分かれ、まずは数学基礎論をめぐる話題、次にaとして、女性数学者レネーの記述、次にbとして夫のカールの記述が続く。レネーは数学の無矛盾性を信じ、レネーは感情移入による人間理解を信じている。おそらく数学基礎論でのトピックの記述と、二人のそれぞれの真実の変遷とが対応しているのだろう。最後に至って、二人に起きた信念の崩壊は共有されるが、それは二人の関係に悲劇をもたらすものだったというオチか。パズルを解くように読み解く面白さはあるかもしれない。

 ◎『72文字』

面白かった。生物の発生をめぐる前成説にオートマンやホムンクルス、それに王立協会。錬金術の時代のようで、しかし「名辞」をめぐる架空の科学が支配する世界となっている。その科学の文脈での、作者らしいねちっこい議論の展開とともに、科学者、政治家、神学徒、技術者、殺し屋が入り乱れての活劇もあり、飽きさせない。

△『地獄とは神の不在なり』

天使の降臨による奇跡や、地獄の顕現などが実際におこる世界を舞台にリアリズムで物語を進めていく例の手法。天使の降臨を追いかけるライトシーカーたちは、まるで竜巻を追いかける科学者みたいだ。ただ骨格となる神をめぐる思弁が、日本人にはリアリティがないので今一つ追いかけきれず、結末も腑に落ちない。繊細な感情の動物である人間に対して、気まぐれで杓子定規な原則主義者の神ということか。

◯『顔の美醜について』

容貌の良し悪しが認識できなくなる「美醜失認装置」が開発された近未来が舞台。ある大学での、この装置の義務化の是非を問う選挙の行方をメインの物語にして、様々な立場からの短い発言をパッチワークのように並べた作品。ストーリーの面白さはないが、顔の美醜をめぐる思弁は、貴重で役に立つものだ。ここでも、架空の科学的設定を出発点とするリアリズムと微妙な人間心理が描かれる。

新宿思い出横丁と『永続敗戦論』

今回の帰省では、喜多方ラーメン坂内ばかり食べていた。立川店、有楽町店、そして新宿思い出横丁店。坂内は、とろけるようなチャーシューが特徴なのだが、カウンターだけの小さな思い出横丁店は、歯ごたえのあるチャーシューが、それも他店の倍くらい入っていた。

新宿には何度も来ていても、思い出横丁を意識して歩いたのは、初めてである。路地に面したカウンターだけの小さな飲食店をのぞきながら、ふと『永続敗戦論』のことを思い出した。この本は4年ばかり前に出版されて、評判になったものだ。著者は若い学者で、レーニン論でデビューしているから、元気をなくした左翼陣営の期待の星として必要以上にもてはやされたところがある。内田樹ですら、対談本を出している。

ただ読んでみて、あまり感心するところはなかった。特にうんざりしたのは、エピローグで披露された思い出横丁でのエピソードだ。著者が思い出横丁で飲んでいると、アメリカ人の観光客の若者が入ってくる。すると一人酒の60過ぎの親父が、突然アメリカが大好きだといって握手を求めた、というそれだけの話である。

ところが、著者は「ムズムズするような不快感が腹の底から湧き上がってくるのをはっきりと感じていた」と書く。彼の理屈はこうだ。戦争の焼け跡と闇市をルーツにしている場所で、街を焼いた張本人の末裔に愛想をふりまく親父は、日本人として「下劣」ではないか、と。

腹の底から、あほかと思う。明らかに戦後生まれの親父を含め、戦争の当事者はそこには誰もいない。都合よく当事者に成り代わって、他者を裁くことなど誰にもできないはずだ。なるほど考える自由はあるだろう。しかし、手前勝手な理屈や物差しを振り回して、生身の人間を「下劣」と断罪するような人間は、書き手として低劣である。

当時は、著者の文章に不快感を抱くだけだった。しかし今なら、東浩紀の『観光客の哲学』に従って、アメリカの若者と飲んだくれの親父との「出会うはずのないものの出会い」に希望を見出すことができるだろう。偽物の書き手もいれば、本物の書き手も存在するのだ。 

 

追記。その後、『永続敗戦論』の著者は、同じような短絡思考でユーミンを死ねばいいと発言して、物議をかもしている。

 

 

鳥たちと出会う瞬間

めまいはなんとかおさまったが、凍てつくような寒さである。無理に用事を作って、昼休み外にでる。用水路の脇の道を歩いていると、水路の擁壁の上で、セキレイが争っているのを見つけた。セキレイは、尾が長くスマートな小鳥で、ハクセキレイが地べたを歩く姿をよく見かける。しかし、今回は、カササギを小さくしたような黒白の優美なセグロセキレイと、胸の黄色が目立つキセキレイだ。彼らは気が荒く、縄張りのとりあいの最中だろう。

そこへ、一回り大きい鳥が割り込んでくる。よく見るとふっくらした灰色の身体に細かいウロコ模様が入っている。オスならば濃紺の身体に紅色の胸をもつイソヒヨドリの、とても地味な体色のメスだ。識別の難易度は高いかもしれないが、僕はほがらかにさえずるイソヒヨドリが好きな鳥なので、動きからそれとわかった。

不意に背後の林から小鳥の声が聞こえたので振り返ると、グレーの身体に黒いネクタイをしめたシジュウカラが、せわしなく枝で動き回っている。その近くにすうっと舞い降りたのが、細かいまだら模様のキツツキのコゲラだ。

5羽の鳥たちの交錯は、わずか数十秒の出来事だろう。それぞれは特に珍しい種類ではないが、彼らの偶然の邂逅に立ち会えたのはうれしかった。あたりまえの風景や日常のなかに、多様性や豊かさをみとめるのは、そんな瞬間をのがさない目なのだろう。帰り道には、すでに鳥たちの気配はなかった。

ストーブ1号2号

外出から帰ると、玄関でいつものストーブ1号とストーブ2号のデコボココンビが出迎えてくれる。1号は、背の高い円筒形のハロゲンヒーター。2号は、小ぶりだが多機能の優れものだ。

妻は昔から,多少強迫神経症気味で、気になることは何度も確認しないと気が済まない。ドアの鍵は、今でも3回くらいはガシャガシャしたり、回した鍵の水平の向きを指で左右になぞったりしている。エアコンは気にしないのだが、電気コードにつながれたヒーターは生き物みたいに恐れていて、コンセントから外して息の根を止め、リビングから玄関先まで運んでおかないと、外出の時は安心できないらしい。でも、出がけに「1号よし、2号よし」と呼びかけている姿を見ると、どこかペットを可愛がってるようでもある。

精神分析では、神経症は子供時代の体験に根を持っていると言われる。小学校のとき両親が離婚したり、ひどいイジメを受けたり大変な経験をしているのは間違いない。ただ、一生懸命二人の子供を育てるなかで自分に自信をつけて、強迫傾向もある程度落ち着いて来たような気がする。

それが、最近さらに確認の回数が減ったのだそうだ。観察眼に優れた次男の意見では、車の運転の練習を再開したのが原因だろうという。なるほど、車では信号や交差点など即座に判断しないといけないし、課題は次々にやってくる。運転が、一種の行動療法の役目を果たしているのは確かだろう。「頭の中で、ホックがパチッとはまるようになった」と妻はうれしそうに言う。

『あなたの人生の物語』テッド・チャン 1998(その3)

この小説を原作とする映画『メッセージ』(原題はArrival)をビデオで見た。原作と比較しながら見たために、純粋に映画自体に入り込めなかったかもしれない。普通に見ていたなら、上質なSFとしてもっと楽しめただろうと思う。

映像になると、異星人や彼らとの接触に至る過程の描写の比重が大きくなる。原作にない巨大な宇宙船のビジュアルも圧倒的だ。主人公が軍の一部による先走った宇宙船への攻撃に巻き込まれたり、国際政治の緊張の中で中国を筆頭として宣戦布告の危機が生じ、それを主人公の活躍が食い止めるという活劇的な要素が付け加えられている。そのかわり、原作の中心だった言葉をめぐる思弁的な議論が削られていて、ストーリーを彩る一要素に後退している。

ヘプタポッドの言語については、必要最小限の説明にとどめている。時制がないから時系列もなく未来を知ることができる、というのは直観的にわかりやすい説明だと思う。言語が思考を規定するという理屈にもさらっと触れている。原作では、ヘプタポッドの言語の習得によって、自らの未来を知るという能力が獲得されるという設定になっていたが、映画では、主人公がヘプタポッドとの交流を通じて一時的に未来をのぞくことができたように描かれる。「未来を知る」「時を開く」というヒントがヘプタポッドから与えられるのだ。

原作では無造作に並べられていた本編と未来のパートの断片を映像でどう処理するのか、興味があった。あらかじめプロローグで未来パートを圧縮して示しておいた上で、ヘプタポッドとの接触が深まる中で、主人公の幻聴やフラッシュバックとして導入するのは映像ならではの自然な手法だ。気を取り直してからの「あの娘は誰」というセリフは、本編との関係をさりげなく示している。また原作では25歳での娘の事故を、もっと子どものうちの病死に変更しているのは、主人公の見た目の変化を目立たせないためだろうか。

原作では、未来との関係も「記憶」という受身の関係に限られる。映画では、未来との同一化によって、ヘプタポッドの言語を解読したり、中国の将軍を説得したりして、未来を知ることの効果を劇的に表現している。異星人の訪問の目的についても、原作では「観察」や「交換」等の示唆はあるが、結局はよくわからない。しかし映画では、3000年後に人類の助けが必要だから今の人類を助けに来たと、ヘプタポッド自身に明快に語らせる。

総じてハリウッドの娯楽映画の文脈に、原作の素材を落とし込んでいるという印象である。映画作品は、因果律的な世界観をゆるがないベースとしている。この意味では、そこからの離脱をテーマとする原作とは、力点の全く異なる作品に仕上がっている。Arrival(到来、出現)という原題は、むしろ正直にそれを告げているのだろう。

 

古建築は大地にうずくまる甲虫である

普門院の境内に入ると、そこには不穏な空気が漂っていた。石灯籠は倒されて、池の水は干上がっている。本堂に上がる石段は、大きく波打っており、大樹の切り株ばかりが目立っていて、造成地のようなガサツな雰囲気になっている。

7月の九州北部豪雨のために、裏山から境内に土石流が流れ込み、重要文化財の本堂にも縁の下が土砂に埋まる被害があったそうだ。現在は、境内の土砂は撤去されたようだが、重機での作業のためか大木も多く切られており、いっそう荒れ果てた印象をうける。
そんな中で、鎌倉時代建立の本堂は、老いた甲虫のようにうずくまって、この事態に耐えている様子だった。三間四面(柱間が三つの四面で正方形)の典型的な小堂だが、前面一列に吹き放しの柱が立って、向拝(正面の庇)を支えている。禅宗様のような細かい意匠はない和様の建築だが、単なる仏像の容れ物ではない、建物それ自体の強い存在感がある。近世以降の小堂には感じられないこの感じはどこからくるのだろうか。
一目でわかるのは、小堂に不釣り合いなほどの木割(柱)の太さ、組物や縁側などの材の大きさ、厚さである。また、宝形造のシンプルな屋根の本瓦葺きの重厚さである。これらの素の部材が、それぞれ時代を感じさせる表情を見せて、命あるものの存在感を示している。禅宗様が細かい部材の繊細な組み合わせで建物に生命を通わすのとは、また別のアプローチだろう。
優れた古建築は、大地にうずくまり、また伸び上がる甲虫のようだ。この印象は、中学生の頃初めて寺院めぐりした当時から、ずっと変わらない。