大井川通信

大井川あたりの事ども

『波』 山本有三 1923

三鷹山本有三記念館にいく。太宰治が入水自殺をした玉川上水に面した道にあるが、あたりはすっかり整備された住宅街になっている。

戦前、山本有三(1887-1974)が住んでいた洋館だが、改修したばかりのようでとてもきれいだ。西洋館を見て特別に感心することはあまりないが、表現主義的というのだろうか、変化にとんだ意匠が面白く、珍しく好きになってしまった。壁を小さく切りとっただけの勝手口のような玄関も新鮮だし、スクラッチタイルと石張りの大きな煙突の目立つ外観は、明るく軽快だ。庭園も整備が行き届いていて、アカマツの巨木が風格を添えている。

新潮文庫では絶版になっている『波』が、記念館文庫として売られているので買って、すぐに読み始める。400頁を超える長編だが、翌日には読み切ってしまった。取りかかりが遅く読むのも遅い僕にはめったにない経験だ。

漢字の使用が少なく、とにかく会話で話が進んでいくから、とても平明で読みやすい。設定や情景の描写などは、あっさりしすぎていると思うほど最低限しかない。主人公を含む登場人物たちは、自分の納得や了解を求めて誠実に生きている。それを自分の言葉で表現し、対話で相手を納得させようとする。この点で、男女も大人も子供も対等だ。

しかし恋愛や結婚、親子関係、社会や教育制度などの問題の前で躊躇し、足踏みせざるをえない。かつてなら近代的な自我の確立などと呼ばれた近代文学のテーマだが、今読んでも少しも古びていないのだ。むしろ流行のテーマを扱った小説のほうが、今では読むに堪えなくなっているだろう。生きることの困難をめぐっての枠組みは、そうそう変わっているわけではないのだから。

明快でわかりやすい構成の小説だが、細部の描写や設定に、作者の技量を感じさせるものがあった。主人公は、突然足が動かなくなるという不可解な持病をもっている。理性的で主体的であろうとする彼が、不意に身体からのブレーキを受けるという場面は、とてもリアルだ。