今年は、人生の総決算的に勉強に取り組もうと決意したので、5月5日の今村先生の命日には主著ともいえる大部の研究書を手に取った。例年のように手軽な文庫や新書ですますわけにはいかない。
廣松渉の忌日にも、当然同じ姿勢で臨むことになる。だとしたらやはり『存在と意味』だろう。この大著に何度かチャレンジしたが、読み通してはいない。そのつもりだったが、風邪で急に体調を悪くして気が弱くなり、『世界の共同主観的存在構造』に切り替えることに。
大学時代に手に入れた勁草書房の単行本で、箱付きの重厚な研究書だが薄くて内容的にも読みやすい。廣松渉の思想の全体像をとらえるのはこちらの方が便利だ。がちがちの漢熟語とヨーロッパの哲学用語の原語を組み合わせた記述は、鬼面人を驚かすようなところがあるが、読みなれてしまえば、かえって平明で分かりやすい。学生の頃以来の読み仮名が書き込みも読解の手助けになる。
たしか、浅田彰が登場したてのときに、以前この本を読んでなんでこんな当たり前のことを難しく書いているのだろうと思ったという、いかにも早熟の天才らしいエピソードを話したことがあった。なるほど、廣松の示す枠組みをいったん受け入れてしまえば、世界の四肢的存在構造というおどろおどろしい造語で語られる内容は、自明かつ平明そのもので、このような簡略なまとめを廣松以外の誰ひとり採用していないのが不思議なことに思えるほどだ。
一方、この文体には反感も多いようで、僕の参加する読書会で、あるベンヤミン研究者は、若い頃けっして廣松のようなスタイルでは書くまいと考えたと話してくれた。しかし、その感想には廣松の方法についての無理解や誤解があるように思えた。
廣松の哲学的達成が、現代の日本人にとってどれほどわかりやすいものであっても、これを従来からの日本の言語と思考法と日常生活から立ち上げることは全く不可能だったろう。日本語とは異質のヨーロッパの言語と文化に基づく思考法を経由してはじめてもたらされるものだ。
だから、それをはじめから平明な日本語のみでに書き表すことはできないだろう。日本語として中途半端なものになり、その背後に原書の読解という体験をもたなければ理解できないものになるか、まったく本意を失った言葉の羅列になってしまうに違いない。
一方、廣松の書法は、哲学の発想が我々とは全く異質な出自を持っていて、それを日本語としてあらわそうとするときに、とんでもなく異形で武骨なものになってしまう実態を正直に示している。カントやマルクスの原書を読まなくても、彼らの思考のエッセンスを日本語で考え抜くとどういうものになるかを味わえる独立した書物になっている。
西欧の哲学者たちの一見平明な解説を提供して、しかしそれは案内に過ぎず、原書の読書でしか本来の面目は伝わらないという匂わせを行う、多くの哲学研究者の姿勢とどちらがすぐれているかは言うまでもないだろう。
以前、小林敏明の廣松論を読んだときに、西田幾多郎にも共通するその独特の書法が、日本の地方出身者という位置に根差したものであるという解釈に感心した記憶があるが、その細部は忘れてしまった。だから今の僕が考えていることを書いた。