大井川通信

大井川あたりの事ども

『宗教対話(暫定版)』を構想する

先に『大井川ガイドブック(暫定版)』を構想した。その内容をレジュメにして、吉田さんとの勉強会で検討を加えてもらった。自分としては斬新なアイデアのつもりで、思い切った方針を打ち出したつもりだったのだが、そうでないことを吉田さんから教えられた。

なるほど、毎月の勉強会のレジュメの作成方針が、異なった日付の文章を並べるという方法を取っていたのだ。吉田さんから見れば、従来の手法の延長線上に当然あるべき本づくりの方法に思えたようだ。ありがたい後押しである。

5月開催の会では、とりあえず第一章の原稿案(A4で20頁)を提示できたので、あと3か月をかけて、毎月2章ずつまとめるようにすれば、目標の8月までに、全体像の提示ができるだろう。100頁近いボリュームになるはずで、これはなんとかなりそうだ。

一方、宗教論の方は、大井川歩きのような蓄積はない。昨年中に考えたことは、年末にまとめて井手先生にもお渡ししている。同じ方法を使えば、夏までにはその続きを書くことができるだろうが、どうも食指が動かない。

一段階上の研究へと心が動いたのは、自分なりに納得がいくものがつかめたからだ。どのような疑問と興味があって、どのような体験と思索の上で、それへの解答なり展望なりを得ることができたのか。細かい議論ではなく、それを大づかみでしめしたい。生きた言葉で書いてみたい。

それには、二人の人物の対話という形で、基本的な問題点を一つずつ片付けていくというやり方がいいだろう。そう思いついた。この手法では、尊敬する廣松先生が本を何冊か書いている。

僕は若い頃にそのやり方で文章を書いてみて、比較的すらすら楽に書くことができたという記憶がある。もともと書物をきっかけにした対話の実践は長く続けてきたし、その手法に鍛えられてもきた。今のところの僕の問題意識を短期間でストレートにとりだすためにはもってこいの書き方だと根拠のない自信を感じている。

対話者は、僕の中の二つの傾向を代表させることになる。戦後的で合理主義的、哲学的思考は好むが、「非合理的」な祈りや民族的風習とは距離があるA。哲学的思考が宗教を招き寄せることに理解があり、浄土真宗を経由して金光教に向き合おうとするB。

両者の分水嶺は、永井均独我論清沢満之の有限無限論だ。僕は、この二つの論と人生経験(大井川歩きを含む)を通して、AからBへの歩みを繰り返し辿りなおしてきた。日常語をベースにした対話という形でなら、そのあたりのエッセンスを圧縮して提示できそうな気がする。本当に納得できたことなどいくつもあるわけではないから、3か月とりくめば、ある程度のものになるだろう。