学生時代、早稲田の古本屋街を巡回するのが好きだった。その時手に入れた本で今でも持っているのは少しだけだろう。まっさきに思い浮かぶのは、学習研究社版世界文学全集(全50巻)のうち、1978年発行の第35巻『ゴーゴリ』だ。
子どもの頃からゴーゴリが好きだから購入したのだが、巻頭の文学アルバムのカラー写真が豊富で解説が充実しているだけでなく、小説家の後藤明生(1932-1999)が、『外套』や『鼻』の翻訳に参加したり、「ゴーゴリと私」という30頁以上のエッセイを寄稿したりして、尋常でない力をこめている一冊だ。
このため、自分の作品という思い入れが強かったのだろう。地味な謹呈用紙が挟まれているが、それは後藤明生から評論家の蓮実重彦に宛てられたものだった。文学好きのうぶな学生だった僕は、ゴーゴリに心酔する有名作家が、当代一の批評家に自分が手掛けた本を送って、それが無残に古本屋に売られているというドラマに興奮したのを覚えている。その本がいま自分の手元にあるのだ。
その後、後藤明生の作品は、ゴーゴリ論もふくめて何冊か手に入れたが、結局ピンとこないままに読まずに終わってしまった。ただ、何かの本に彼のサインが印刷されていたので、比べてみると、謹呈用紙の署名と同じ筆跡だったのを確認して安心したのを覚えている。その後も、何年かに一度はこの本を開いて、謹呈用紙の存在を確認することは無意識に続けてきた。
今ネットオークションで確認すると、有名作家あての後藤明生の謹呈署名入りの古本が売りに出ていても、そのためにいくらかでも値段があがるわけではなさそうだ。謹呈用紙一枚にはいくらも金銭的価値はないだろう。
ただ、ネットのない時代は、一冊の本との出会いは偶然で、足で稼いで手探りで求めるしかなかった。そのころの僕のお宝である。