大井川通信

大井川あたりの事ども

ゴーゴリのペテルブルク物語を読む

岩波文庫で、ゴーゴリ(1809-1851)のペテルブルクを舞台にした小説集(いわゆるペテルブルクもの)を読んだ。1983年の新刊で、1988年に発行されたものを持っている。紙質が良くないためか、ずいぶんと古く使い込んだ本に見えるが、実際にはきちんと読んではいないと思う。

なお、現名称サンクトペテルブルクはモスクワに次ぐロシア第二の都市で、ソ連時代は、レニングラードに改称されていた。

『ネフスキイ大通り』(1835年)は、ゴーゴリファンの僕には馴染みのある題名だが、今まで読んでこなかった。しかし読み終えてまだ一週間ばかりなのに、早くもストーリーを忘れかけているところをみると、実際には読んだものの内容を忘れてしまったと考えるべきだろう。

この小説が記憶に残りにくいのは、あくまで主役はネフスキイ大通りであり、そこで起きる様々な出来事のうち、たまたま二つを取り上げるという話になっているからだ。街路を一緒に歩く二人の若い友人が、ある瞬間にそれぞれ別の女性を見初めて、別れて後をつけるという出来事の顛末を二つのエピソードとして語るのだが、画家の方は悲劇として、中尉の方は喜劇として描き分けている。凝った作りをしているために、小説としての印象が薄くなってしまったのだろう。

二人とも、見知らぬ女性の魅力のとりこになるのだが、画家の方は、美しい女性が商売女であることにギャップに魅せられ、中尉の方は、美しい女性が職人の「頭のわるい」妻であるというギャップに魅せられる。二人はいわば実体のない幻に夢中になるのだが、そのために画家は精神的に追い詰められて自害し、中尉は職人仲間にボコボコにされるものの、その夜のダンスで気を取りなおす。

語り手はこれらのエピソードを、ネフスキイ大通りの仕業としてとらえ、人間がこの世の利害から離れて幻にうつつを抜かし、偽りと欺瞞に生きることをむしろこの場所の魅力として描き出すのだ。都市の街路へのこの解釈は、当時としては斬新なものであるような気がする。

肖像画』(1835年)は、僕がおそらく高校生の頃、旺文社文庫で読んで気に入っていたもの。久しぶりに読むと、ゴーゴリの芸術観や絵画論がとうとうと述べられていて、想像よりかなり冗長な気がした。第一部で貧乏画家が不気味な肖像画を手に入れた夜に、その絵の中から怪人が出てくる悪夢にうなされる場面と、第二部ラストで競売場から肝心の肖像画が盗まれてしまった場面とは、強く印象に残っていてやはり上手いと思った。

なお、この小説を知ったのは、中学生の頃に呼んだペレリマンの『おもしろい物理学』の中の錯覚を扱った章であると記憶していたが、確かめてみるとそのとおりだった。ペレリマンは、観る者が絵の前で移動しても肖像画の視線から逃れることができない謎を、瞳の中央に黒目が描かれていることによる現象と解釈している。

狂人日記』(1835年)は、この文庫で読んだ記憶がある。短いものだが、しっかり内容も覚えていた。役人社会への風刺とそこに生きる小役人の悲喜劇に、犬がしゃべったり手紙を書いたりするような幻想の要素を加味して、傑作『外套』や『鼻』に通じるような世界を創造している。日記の日付がめちゃくちゃになっていくというアイデアが面白い。

 

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