大井川通信

大井川あたりの事ども

セミと現代詩

セミは僕の大切な持ちネタで、このブログでもたくさん記事を書いてきたが、まだセミヤドリガのことについては書いていない。セミヤドリガとの出会いは、ちょうど10年前の夏の忘れられない思い出である。セミヤドリガのために、僕は生まれて初めて骨折をして、生まれて初めての手術をすることになった。しかしこのブログに書く以上は、この夏に「大井で」セミヤドリガと出会わないといけないだろう。10年前は、職場の裏山だった。というわけで、今回は決意表明のみ。

ところで、現代詩も、このブログの大切なカテゴリーの一つである。郷原宏さんの詩集を読んでいて、こんな詩に出会った。

 

東京に初めて秋風が立った日に/武蔵野の林のそばを通りかかると/アブラゼミとツクツクホ-シが/ここを先途と鳴いていた/「霜草まさに枯れんと欲して虫思急なり」/と白居易がうたったのは/秋の終わりのころだったはずだが/夏の虫にとっては今がまさにその時/急迫調にせかされて/私も思わず足を速めた/だが、何処へ?

昆虫学者によると/羽化したセミが鳴き出すまでには/一定の気温の積算が必要であり/寒い夏には/ようやく鳴き始めたかと思うと/すぐに寿命が尽きてしまうという/何のためにと今は問うまい/この夏/きみたちは充分に鳴いたはずだ

その日の夕方/同じ林の道で/一匹のセミの死骸を/無数のアリが引いていくのを見た

(「風立ちぬ郷原宏

※「ここを先途(せんど)と」とは、ここが運命の分かれ道と一生懸命になる様子、らしい。初めて知った。「虫思急なり」はちゅうしきゅうなり、と読むのだろうか。虫の思いが切羽詰まると解しておこう。

 

詩自体は、しみじみとした味わいのある佳品だが、特別な印象を残すものではないかもしれない。問題は第二連だ。ここには以前から僕には疑問だったことが、なるほど昆虫学者の研究成果にありそうな理屈で簡潔に説明されている。

庭でセミの抜け殻を集めていると、羽化が始まってから実際にセミの鳴き声を聞くまでにかなりのタイムラグがあることに気づく。実際にはひと月くらいある寿命が短命だと誤解される理由は、鳴いている期間が短いからだろうと推理していた。

「一定の気温の積算が必要」とは、単純に考えると、たとえば一日の平均気温の累計が300℃必要だみたいなことだろう。この条件なら、30℃が毎日なら10日ですむが、20℃が続くと15日かかってしまう。

セミを扱った詩歌自体は珍しくはないだろうが、僕の疑問にピンポイントで答える専門知識を詩集から得られるとは思いもよらなかった。しかも郷原宏さんからとは、世の中は奥深い。