大井川通信

大井川あたりの事ども

『高熱隧道』 吉村昭 1967

読書会の課題本。吉村昭だし(といっても彼の作品をまったく読んでいないのだが)、ドキュメンタリーだし、あんまり文学的でなさそうだし、ということで全く期待してなかったのだが、どっこい、かなり面白かった。

一つには、これが黒部渓谷のトンネルの難工事を題材にしたものであったこと。これは炭鉱好きな僕には、たまらなかった。炭鉱も、トンネルも、地中の岩盤に穴をあけるということでは共通だ。坑道だの、切端(きりは)だの、竪坑だのという専門用語も共通だし、作業の手順や、万一の危険や困難も一緒である。ただし、この現場は、冬期に雪に閉ざされるという特殊性と、温泉地帯であるため、岩盤が160度を超える高温となるという困難にさらされている。

戦争中の国策の工事である背景や、技師たちと人夫たちとの対立関係をていねいに描きながら、物語は息もつかせぬ展開を見せる。

もう一つは、今、この時代にこの小説を読む、という複雑にねじくれた関係が面白かったのだ。出来事は、1936年から1938年頃の戦時下に起きている。国家の暴走と抑圧の時代である。ところが作品が発表されたのは、30年後の1967年。これまた、高度成長の真っただ中、というくっきりした時代だ。

読み始めは、なんとなく戦後の物語のような気がしていた。人夫たちの人権もそれなりに配慮されて、暴力による管理という側面がほとんど触れられていないからだ。一方、技師と人夫とが黒部渓谷の自然と戦って、傷つきながら、それを克服していく様を中心に描いている。

そう、これは人間の労働があらゆる価値の源泉であり、労働者が主役である、という近代の精神、つまり日本の高度成長期の価値観を背景として書かれ、読まれた小説なのだ。小説の末尾には、人夫という下層の労働者たちの「目覚め」すらそれとなく暗示されている。革命のはてに、労働者の国が建設されることがリアルに信じられてもいた時代なのだ。

それから50年。労働はすっかり色あせてしまい、すでに社交と消費が主役の時代が到来している。炭鉱マニア、ダムマニア、トンネルマニアといったおぞましい連中が現れて、かつての労働の成果物をネタとしてかすめ取り、それを面白おかしく消費するという風潮がまかりとおる始末。(自省!) なんと、工場萌え、だそうだ。

今、この本をまともに読むことは、この分厚い文化的な三層の岩盤を掘りぬくような、困難で煩雑な作業を必要とするのかもしれない。

この本は、近年、新潮文庫の「徹夜本」のフェアで取り上げられたそうで、今の若い人たちが一気に読み通せるような小説的な面白さを持っているのだろう。しかし、本当の岩盤は、この本が記録するとおり、大勢の労働者が力を合わせて、一日に数メートルしか掘り進められないのだ。徹夜でどうにかなるようなものではない。