大井川通信

大井川あたりの事ども

生きるときは無名者として生きるのだから、死ぬときは王者として死なねばならぬ

高橋睦郎の短詩集『動詞』から。表題は、「生きる・死ぬ」。

たぶん老いることや、死へのプロセスについては、ある程度理解はすることができても、死それ自体については、よくわからないまま、まるで納得できないままに、その時を迎えるのだろうと思う。その時がいつかもわからない。だから、死については、手っ取り早く、なんらかのイメージを持っておく必要がある。

宗教が人間にとって大切で、なくなることがないのはそのためだ。しょせん人間がつくったおぼつかない生死の観念を、大勢の人間が共同で、荘厳な儀式やら、巨大な建物やらで、何とか確からしくして、支えあい、納得し合おうとしているのだろう。

高校教科書で定番だった小林秀雄の短い評論「無常ということ」に生死についてのコメントがあって、印象に残っていた。今確かめると、小説家の川端康成にしゃべった内容と書いてある。

「生きている人間というものは、どうもしかたのない代物だな。何を考えているのやら、しでかすのやら、自分のことにしろ他人事にせよ、わかったためしがあったか。鑑賞にも観察にも堪えない。そこにいくと死んでしまった人間というのはたいしたものだ。なぜ、ああはっきりとしっかりとしてくるんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」

内容の賛否はともかく、人間が実感から生死について言えるのは、せいぜいこのくらいのことなのかもしれない。ただ、死は人間の完成形という小林秀雄のイメージは、実際に死を迎えるときに役立つかというと、ちょっと心もとない。

僕が、いまのところ気に入っていて、これなら、という力強いイメージがある。同じく高橋睦郎の短詩「死ぬ・生きる」が、それだ。

 

「死んでいる者とは過去のある一点において死んだ者というのみではない。かつて死に、いまもなお死につづけ、これからも死に進んで行く者のことだ。これに対して、生きている者とは、単に死んでいない者というにすぎない。」