大井川通信

大井川あたりの事ども

ペットロスということ

新聞記事で、ペットロスという言葉を知った。言葉の成り立ちからすれば、意味の取れない言葉ではない。けれどそれがどれほど深刻な意味をもっているかは、実際にペットを飼ったものにしかわからない、と記事に書いてある。

自分の親が亡くなったときより悲しいとか、ペットのあとを追って死にたいとか考えてしまうようだ。

僕も、一昨年の冬に我が家に迷い込んできた子猫のハチと一緒に暮らし、わずか4カ月でハチを亡くして、ペットの飼い主の気持ちがはじめてわかった。今までのどんなお葬式よりも純粋に悲しかった。あとを追おうとは思わなかったが、かわいい骨壺に写真をはって棚に置いてあるから、ずっと一緒にいる気持ちでいる。

僕の実家では、動物をめったに飼わなかった。その理由を父親は、別れがあるからと説明していたが、その言葉の裏には、繊細だった父親の切実なペットロス体験があったのかもしれない。

ハチのあとに九太郎が家のきて1年と3カ月。妻がまじまじと九太郎を見つめて、うちの子どもになったね、と声をかける。ちょっとした外出も、九太郎が気がかりだと早く帰る。僕の二階の部屋にはめったに来なくなったが、朝早く淋しくなって上がって来た時には、昔を思い出すのか、僕のお腹の上で、赤ちゃんがミルクを求めるように前足で交互にフミフミをする。短時間だけど。

先日、捕まえたゴマダラカミキリのビニール袋を見せたら、九太郎の反応がすごかった。野生では、大型の昆虫は、頃合いのエサなのだろう。

コロナ禍の長い時間、九太郎に助けられた長男もようやく転職先が決まった。長男は、九太郎はジブリ映画に出て来る動物のような聡明な顔をしているとほめる。親ばかだろうか、いい得て妙だと思う。