大井川通信

大井川あたりの事ども

乱歩と十三

海野十三(1897-1949)の短編集を読み切った。少年時代からその名前に不思議な魅力とあこがれを抱いていた作家だから、実際に読むことができてよかった。しかし一冊読んだ限りでも、むしろ同時代の江戸川乱歩(1894-1965)の偉さを実感してしまう。

たとえば、十三の「三人の双生児」(1935年)では、生き別れた姉妹への思いや、シャム双生児、曲馬団の出し物、変態性欲などの乱歩好みでもあるような題材が並べられて、興味をもって読み進めることができる。

しかし、それらはあくまで小説を飾るための材料でしかなく、登場人物たちも極端な役柄を無理にあてがわれた大根役者のようだ。人間としての厚みや振る舞いの必然性がまるで感じられない。

一方、乱歩の短編では、同時代の文学と比べてもそん色がないくらいに深く人間が描きこまれている。それは、退屈という時代感情や、不具や死体などの肉体への偏愛や、レンズや鏡への執着など、一見好奇な題材であっても、それらが全て乱歩自身の肉体や感覚を潜り抜けたものであるからだと思う。

人間の存在や感情の奥底が押さえられているから、どんな人物もまぎれもなく生きている。だから、乱歩はどんな小品でも読ませるのだ。

一方、十三の作品に読めるものが限られているのは、それがあくまで題材やアイデアの出来不出来に依存しているからだろう。