大井川通信

大井川あたりの事ども

粕谷先生の思い出

中学校に上がると、剣道部に入った。スポーツが好きでも得意でもなかったのに入ったのは、親から言われたからと思っていたが、同じ部活に小学校時代の親友も多く入部していたので、その影響もあったのかもしれない。

顧問は粕谷先生という社会科の先生で、校内では厳しい教師として知られていた。竹の細い棒を持ち歩いていて、校則違反など発見すると、その場に立たせて生徒の尻をたたいた。尻打ち棒とか、愛の鞭とか称していたと思う。

授業は、先生が板書する内容を生徒たちのノートに写させるだけのもので、今から思えばつまらない社会科の授業の典型だった。

剣道部は先生が立ち上げたもので、その運営には熱心に取り組んでいたと思う。隔日で朝練と放課後の練習があり、夏休みなどには長期の練習と一週間ほどの合宿があった。親の会もあって、部活動をしっかりサポートしていた。僕の母親も合宿の手伝いに来ていた記憶がある。

今あらためて振り返ると、不思議なことに、大会に向けての練習とか対外試合とかの記憶がまったくない。盛り上がるのは、部員同士がつくる内部的なイベントだった。先生の方針が、スポーツ的なものより、生徒たちの人間形成や教育に重点があったからだろうと思い当たる。

正月には先生の自宅に呼んでもらったりもしたが、三年間を通じて特別印象に残った言葉やエピソードがあるわけではない。厳しいイメージばかりで人間味を感じることが少なかったのかもしれない。部活動以外の時だったと思うが、連帯責任でビンタされたことが記憶に残っているくらいだ。

僕が中学を卒業したのは、昭和52年(1977年)の3月。僕ははれて剣道から解放されて帰宅部となったのだが、それで高校生活が充実したというわけでもなかった。

その後、風の便りで、粕谷先生は中学校での指導が上手くいかなくなり、養護学校(今の特別支援学校)に移ったという話を聞いた。80年代には、校内暴力など子どもたちの荒れが全国的に社会問題化されるようになる。厳しい一方の生徒指導と単調で面白みのない授業というかつての手法では、荒れる生徒たちを押さえきれなくなったのかもしれない。