叔父さんが亡くなって20年目の命日だから、従兄のけんちゃんにメールをする。早いものだ。亡くなる直前に病院にお見舞いしたとき、しきりに家に戻りたがっていた。「一番自然だから」と。その関係翌日に、叔父さんは病院で「不自然な」死を迎えてしまった。
こうして近しい人間が思い出しているうちは、死者も生者の記憶の中に生きる場所をえているのだろう。しかし、あと数十年で、その場所もフェイドアウトしてしまう。と同時に、この世界も死者にとってまったく見知らぬ人たちだけのなじみのないものとなる。人との関係だけに着目するなら、この時点で死者はこの世と縁をきることができるはずだ。安らかな眠りへと。
しかし、街や場所や風景や自然は、そして動物たちは? それらが完全に見知らぬものにならない限り、死者の魂は、この世界に「自然に」居残り続けるような気がする。僕が死んだあとにゆかりの人たちが全て世を去っても、大井や国立の土地の風景の中で、僕の魂は夢の中のようにうっすらと存在し続けるのかもしれない。
今日は、今村仁司先生の命日でもある。忌日には先生の本を読むようにしているが、今年は主著の『社会性の哲学』に取り組んでいる。先生が大病を患って死を意識するなかで、自分の生涯の仕事の総まとめとして書き上げた本だ。筆をおいて一か月ばかりで亡くなっている。
経済学出身の先生は、哲学の抽象的な議論においても、常に労働や生活の現場を念頭に置いて思索する人だった。僕も今回は、大井川歩きのフィールドの経験と具体的に突き合わせるようにして、この本を読み通してみたい。
四年前の今日、長男は勤務先のある街に引っ越して、家を出て行った。進学や就職に伴う当たり前の年中行事くらいに考えていたが、実際に経験してみて、その重大な意味に驚いた。初めて経験する「家族が減る」という事態だから。今まで当たり前に暮らしてきた家族と、この先、多くてもせいぜい数十回くらい(それも短時間)しか顔を合わせる機会がなくなるのだ。子どもからしたら、せいせいすることではあっても。
ところが、ひょんなことからまた長男との同居が再開している。人生なにがあるかわからないが、必ず起こるべきことは、遅かれ早かれ起きるのだ。