大井川通信

大井川あたりの事ども

岡庭昇のフォークナー論

今回『八月の光』を読むきっかけは、従兄にすすめられたことだったけれども、若いころからフォークナーに挑戦したいと思っていたのは、岡庭さんにフォークナー論があったからだ。岡庭さんは僕の文学の師匠だから、単独の作家論の著作のある椎名麟三、フォークナー、メルヴィル萩原朔太郎安部公房田中小実昌藤沢周平は落とすわけにはいかない。

岡庭さんは、1975年(33歳)の『フォークナー』と2009年(67歳)の『漱石魯迅・フォークナー』とで、二度フォークナーを論じている。後者の方がだいぶわかりやすく論じているが、やはり若いころの端正で緊張感あふれる文体のほうが好きだ。

その全体を理解するためには、すくなくともフォークナーの主著を読み終わらないと難しいが、ここでは初期の岡庭節の魅力のいったんをメモしておきたい。

初期の岡庭さんの評論には、大上段に構えた大風呂敷の魅力というものがある。近代とは、人間とは、悪とは、という大きなテーマに対して、徒手空拳で切り込んでいく。手持ちの武器は、せいぜい初期マルクスの人間論(類的存在論)とか花田清輝の評論や石原吉郎の詩作品くらいにすぎない。

専門学者からしたら笑止千万に見えるかもしれないが、ゼロから立ち上げた観念の大風呂敷で作家を論じ、とにもかくにも個々の作品の細部まで、息の長い文体で論じ切ってしまうという持続力があった。その迫力からくる説得力があった。

これは詩の実作者としての言葉への信頼と、言葉への没入の際立った能力によるものだったと思う。80年代以降の岡庭さんは詩や文学を離れて、与しやすい社会を論ずる(罵倒する)という方向に転換したため、文章がぶつ切りとなり、感覚的な直感からくる断言命題を息長く論じるという美質を失ったしまった気がする。これは後年再び文学を論じるようになっても、回復することはなかったと思う。

フォークナー論においても根底となっている岡庭節を再現してみよう。人間はマルクスがいうように類的な(共同的な)存在だ。しかし、近代においては、言葉や制度は人間を類的に結びつけるものである以上に、人間を傷つけて分断するものに変ってしまっている。すると、人間の類的な本質は、まったく反転したネガの形でしか姿を表せないものとなる。たとえば、それはファシズムにおける民衆の偶像崇拝の形をとる。(『八月の光』におけるグリムやハインズ)

すぐれた文学者は、ネガの世界に憑依しながらも、そこでの自己証明に満足できずに破滅する人物の造形を通じて、あるべき類的本質を取り出そうとする。(『八月の光』のクリスマスやミス・バーデン)

荒っぽすぎるメモだが、今後の読書のために、書きなぐっておくことにしよう。