昨年、新しく全訳で出された『須恵村』を読んで、それなりにわかった気でいた。大井川歩きで地元の集落の聞き取りなどをしているから、多少の予備知識はある。今現地を見ても、様変わりした平凡な街並みや村里を見るくらいかもしれないと思っていた。
ただ、足早に旧須恵村を回ってみて、僕自身、肝心なことを理解していないことに気が付いた。やはり実地で体験することは大切だ。簡単にいえば(おおげさに聞こえるかもしれないが)須恵村とは何なのか、という問題だ。
僕が、東京の新興住宅街の出身という経験しか持たなかったのなら、この問いに答える必要はなかっただろう。しかし、大井川歩きで、かつての村落を足場として生活しているのだから、当然この問いに自覚的でなければならなかった。
まず寄り道になるが、大井川歩きの主なフィールドである、大井周辺の行政区の変遷のあらましを書いてみる。
江戸時代以来の、東郷村、田熊村、久原村、用山村、大井村というそれぞれ個性の違った村が合併して、明治22年(1889年)に宗像郡東郷村となる。このため旧村はそれぞれ大字(おおあざ)と呼ばれるようになる。大正14年(1925年)には東郷町となり、この東郷町が、昭和29年(1954年)には赤間町、吉武村、南郷村、河東村と合併して宗像町となって、昭和56年(1981年)の宗像市にいたる。
ところで、一般的な市民意識でいうと、かつての村(のちの大字・区)が、里山の開発による住宅団地の開発や人口増加によって細分化されて14の自治会になっているが、これが住居表示にも反映されていることもあって一番基本的な帰属単位だろう。かつての東郷町というくくりは、コミュニティセンターが中心となってのまとまった活動があり、行政上の組織としては機能しているが、特に新しい住民にとってはほとんど意味がないかもしれない。
大井川歩きをするようになって、かつての村(大字・区)の中に、今では住居表示では消されてしまったような地名(字名)があって、それらが集まって村(大字・区)の中にいくつかの集落の単位があることに気がついた。もともとはこの集落が一番基本的な単位だったのだろうから、その意識は旧住民の中には残っているにちがいない。(ちなみにエンブリーの調査は、自然コミュニティである集落を単位にして行われている)
ようやくここで「須恵村」に戻る。須恵村に入って感じるのは、エンブリーの記述そのままに広範囲に様々に性格の異なる地域が散らばっていることだ。これが一つの村なのか?
ここではたと気がつく。須恵村とは、明治に入って村々が合併してできあがった行政単位であって、僕の地元でいえば「東郷町」みたいなものだったのだ。ただし、戦後すぐにさらなる合併で解消してしまった東郷町とは違い、明治以降平成の時代まで100年以上続いた「須恵村」は、現在の旧村民にとってはるかに身近になじんだものだったろう。
東郷町というくくりであれば、なるほど、鉄道や街道に面した商店街中心の地域もあれば、水田が広がる地域、丘陵地帯の地域もある。旧須恵村に含まれる地域に、様々に性格のことなる土地が含まれるのは当然だったのだ。
僕は商店の集落である覚井の路地を歩いただけでなく、球磨川の対岸の水田の集落である川瀬(かわぜ)で庚申塔をながめたり市房山や白髪岳を遠望したりした。丘陵の集落である阿蘇では、畑仕事をしている夫婦に話しかけてみると、『須恵村』の訳者である田中氏と面識がある方だった。山の集落である平山では、昭和12年生まれのご婦人から、布水の滝での雨ごいのことやエンブリーさんが何度も平山に来たという話(彼女の出生の数年前の出来事)を聞くことができた。