大井川通信

大井川あたりの事ども

『木』 幸田文 1992

読書会の課題本。大井川歩きをまとめている最中でもあって、身近な自然に向き合うことの意味を考えるのに役にたつ読書となった。幸田露伴の次女の幸田文(1904-1990)の晩年、60代後半から80歳くらいまで(発表年1971-1984)の木をテーマにしたエッセイである。

樹木や植物についての強い関心と生活や実地での経験を豊富さを考えると、書かれた文章の量は決して多くはない。発表媒体がすべて同じPR誌『学燈』だから、木についてのエッセイを書く場所と取材のおぜん立てはあったのだろうが、文章の自在さや思考の高揚をのぞいてしまうとその内容も豊かとまではいえない。著者自身、自分の持前を「一つ覚え」と表現している。それをどう考えるか。

あくまで木が主役のエッセイだから、それにかかわる人の姿は淡くほとんどいるかいないかわからないほど背景に押しやられている。「森林の人」など、まるで墨絵の人物のようだ。もとより、樹木にかかわる施設や職業というのは裏方的で一般にはなじみが薄い。国有林を管理する営林署(現森林管理署)や製材所の職員、農業(林業)試験場や植物(樹木)園、大学の演習林の研究者や宮大工など、ほとんど樹木に仕えるシモベのように無個性に描かれているのもかえって心地よい。

心境小説に似てはいるが、私小説としたら違和感があるのは、興味関心のある樹木のみが取り上げられて、わずかなエピソード以外、人物が描かれていないからだろう。随筆、エッセイといった方が落ち着きがいい。

樹木に対する視線の持ち方は、特別に目にひく大樹(老樹)を目の前に置いて、感情移入していくという平凡な態度だ。樹木から感動をもらいたい、という主張も、今のパワースポット訪問に通じている。「木の生きていく苦しみ」に「人の生きていく苦しみ」を重ねるのは、老樹の好きな人たちが無意識にとっているやり方だろう。老齢の樹皮や根のおどろおどろしさに恐怖し、花の美しさとの対比に驚くというのも、そんなに深い感情ではないように思う。ただ、ぐいぐいとそれを押しまくる、というあたりに嫌味のない魅力があるのかもしれない。

木に関する認識に関しては、著者の紹介する専門家の言葉の方にひかれるものがある。一本の樹木の中には、ずっと上の世代から下の世代までが入り交じって生きている。木は材としても生きるが、やがて生き尽くして寿命を終える等々。著者もまたこれらの言葉にまっすぐに耳を傾け、心に収めようとする。

老いについて感慨もところどころにのぞかせる。まだ60代のうちは、持ち時間の少なさを自らのせっかちの言い訳にしていたが、80歳に近くなると、それを合理化せずに「心の錘がやせる」という風に嘆いている。こうした感想も正直だ。

まだ日本の林業が機能していた良き時代のエッセイという気もする。戦後の植林による花粉症の拡大、林業の衰退による植林の荒廃、松くい虫ナラ枯れなど虫害の発生、輸入材の拡大等の社会的な問題は、すでに潜在的には存在したのだろうが、触れられることはない。

虫や鳥から木々に関心を持った僕からすると、著者の関心が、樹木とせいぜい地形や風土に限定されているのは少しもったいない気がする。まだ、生態学的な知識や関心が一般的でない時代だったから仕方ないことだろうが。