ネットで注文したら、びっくりするくらい薄い小冊子が送られてきた。文庫本サイズで本文が50頁ほど。今回の講義で羽田先生が、小川一乗の本のコピーを資料として配布しそれを読上げるまでした。今まで講義で名前を出すことはあまりなかったと思うが、今回のテーマと符合したためか、高く評価されていた。
本冊子の講演は、真宗大谷派の学校関係者(宗教教育担当者)に対する研修会で話されたもので、「釈尊から親鸞へ」をテーマとしており、実践的かつシンプルに核心をとらえたものになっている。ここまで枝葉を切り落として、太い幹をさらしていいものか、と思えるほどに分かりやすく簡明である。ここまで単直に述べられるのは、よほどの確信があるからなのだろう。この点は、羽田先生の講義から受ける印象と共通だった。
しかし、信仰の本質をシンプルにさらすということは、その表現が簡明であるがゆえに、その本質とは別の可能性を容易に見えやすくすることでもある。いわば批判を招きやすくすることである。この点でも、羽田先生のお話に近いものがあるように感じた。
釈尊の悟りとは、「生かされている命」への目覚めだという。私たちは、様々な因縁がダイナミックに起こっている状況の中で、一瞬一瞬輝いて生きている。そういういのちへの目覚めをもって、そうではない生き方をしている私を問い直す「はたらき」が阿弥陀如来の本願だというのだ。たとえその目覚めに背いて生きていても、必ず浄土に往生するという本願が説かれることで、私たちの目覚めは促される。
極限までシンプルに描いていても(いるからこそ)、目覚めと本願と浄土との関係はパラドキシカルだ。ただしこのパラドックスを飛び越えるのが信仰であり、信仰の効用と妙味はきっとそこにあるのだろう。