大井川通信

大井川あたりの事ども

こんな夢をみた(押し入れの母親)

実家に戻ると、父親は出かけていて姿が見えなかった。でもその父親という人はずいぶん若くて、まったくの別人のように思えた。母親は病気で、もう長くはもたないということだった。

しかし、ずいぶん元気そうだ。僕のために布団を取り出そうというのだろうか、押し入れの棚に身を投げ出すと、そこでくるくる身体を回しながら、布団を巻き取るように素早く動き回っている。なぜか旅館の布団部屋のように広い押し入れなのだ。

母親は、くるくると回りながら床に舞い降りると、ニコニコと笑った。これから死ぬような人には思えない、と僕も笑う。そして母はしばらく大丈夫ではないかと考えた。

 

夢の中には、時々、突拍子もない不思議な光景が現れることがある。今回は、広い押し入れの中で、身体を寝かせたままくるくる回転する母親だ。

町の中に突然出現したモアイ像みたいな銅像の唇の部分だけが、ぶるぶると振動を続けているということもあった。身体が地面に埋まっていて、首だけの人物が話しかけてくる、という場面は、無意識に僕が気に入っているのか、くりかえし夢に出る。

 

 

井山、いやまて!

僕の小学校の頃にも、道徳の時間というものがあって、副読本みたいな教材を使っていたと思う。その中に、語呂合わせみたいなこの言葉が出ていて、妙に耳にこびりついている。

クラスの子どもたちが、ケンカをする。それをとめた担任の井山先生が、あとでみんなにこんな話をする。かっとなったときには、自分の名前を思い出してほしい。いったん「井山、いやまて」と唱えて、心を落ち着かせてほしい、と。

教材としては、こじつけに近く、よくできたものとはいえないだろう。物語の中の井山先生以外、この語呂合わせを使うことはできないからだ。にもかかわらず、この台詞は、半世紀の歳月を経て、僕の記憶の中で生き続けた。もっとも覚えているということと、実際にこの標語めいたものが役に立ったのか、は別の話だ。

むしろ役に立った記憶は一度もないくらいなのだが、もしかすると、この標語がうまく機能して怒りが収まったときのことは、すぐに忘れてしまって、短気でことを荒立てた失敗の方が、後悔の念とともにいつまでも記憶に残っているためかもしれない。それなら、井山先生の名言も少しは有効だったということになる。

最近、職場で、アンガーマネジメントの研修を受けた。そこで怒りの仕組みや衝動をコントロールする仕組みについて、ざっと説明をうけた。近年、この言葉を聞くようになってはいたが、それまでは、こんな技法に特化した話を人から聞いたり、活字で読むような機会はなかったと思う。井山先生は、ずいぶん時代に先んじていたのだ。

僕自身は自分の怒りっぽさにうんざりし、家族にはさんざん被害を与えてきたから、こういう地味な知識や知恵こそが、なまはんかな思想よりもずっと大切なことは、身にしみてわかる。

アンガーマネジメントでは、衝動のコントロールは最初の6秒をやりすごすのが大切だといわれる。だとしたら「井山、いやまて!」の7文字を唱えることは、意外と理にかなっていたのかもしれない。

 

 

 

桜桃忌に太宰治の『桜桃』を読む

今日は太宰治(1909-1948)の忌日の桜桃忌だそうだ。実家の比較的近くには太宰が入水したという玉川上水が流れているし、太宰の墓がある三鷹禅林寺にも行ったことがある。

しかし桜桃忌を当日に意識したのは初めてのような気がする。ただ、意味記憶エピソード記憶との特性の違いを考えると、それも怪しい。後者は加齢で容易に失われるそうだから。とはいえ、桜桃忌に太宰の作品を読むというのは、さすがに初めてのことだと思う。太宰は好きな作家ではなかったからだ。熱狂的なファンが多いということも、かえって敬遠する原因となっていたのかもしれない。

とびきり薄い文庫本を買ってきて、とりあえず最晩年の『桜桃』を読んでみた。

成熟なのか衰弱なのかはわからないが、ストレートに吐き捨てるように書いている。だから、こちらもぶっきっらぼうに対話するように読むことができた。

「私は家庭にあっては、いつも冗談を言っている」

僕もいつも冗談を言っているが、それは職場や外向けだ。家庭では、ときどきしか冗談を言わないから、あなたの方が、ずっと徹底している。立派だ。

「ああ、ただ単に、発育がおくれているというだけのことであってくれたら!」

僕も、自分の子どもに対して、そんな風に思っていた。思っていても現実は否応なしにやってくる。現実を受け入れて、前にすすんでいくしかなかった気がする。

「私は議論をして、勝ったためしがない。必ず負けるのである」

僕は議論はあまりしない。ただ、人と向き合ったとき、必ず負けていると感じるのは、いっしょだ。謙虚でも気のせいでもない。実際に負けているのだ。なぜだろう。

「生きるということは、たいへんなことだ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴き出す」

あなたのように自殺を振り回したりしない分、僕は鈍感なのだろう。ただ近頃しみじみ思うのは、人生はこの一回で十分だということだ。若い時からもう一度始めるなんてことは想像もできない。今が終わりがけなのは、ちょうどいい。


『老いと記憶』 増本康平 2018

年齢を重ねると、確かにある時期から、記憶力の低下と呼ぶしかない事態に直面することが多くなる。著者は、認知心理学の研究に基づいて、実際に高齢者向けの講演を続けてきたというだけあって、この問題についてツボを心得た解説を行っている。専門的な議論を正確に理解できたわけではないが、自分の体験に即して、なるほどと納得できたところをメモしておこう。

これ自体正確な記憶ではないはずだが、40代後半くらいから、自分の記憶の衰えに気づくことが多くなった気がする。

一つは、記憶の出し入れについての失調だ。携帯を置いた場所が思い出せないなどの日常の物忘れの他、長く使っていた暗唱番号が不意に思い出せなくなったり、「一過性全健忘」という症状に見舞われたことさえあった。この本の解説によると、「短期記憶・ワーキングメモリ」は加齢による低下が顕著にみられるというから、仕方のないところなのだろう。

もう一つは、同じ話を同じ人に何度も話してしまったり、昔体験した出来事の前後関係がはっきりしなくなったりすることだ。これは、時と場所という文脈情報を伴った記憶(エピソード記憶)の衰えで説明される。

ぜひ人に伝えたい面白い情報があるのだが、はたして特定のこの人に伝えたかどうか思い出せない。だから、相手が内心うんざりしているのも気づかずに、同じ話をしてしまうことになる。しかし、考えてみれば、文脈情報は失われても、本体の情報の方までは忘れていないわけだ。それが失われたら、同じ話をすることすらできなくなるだろう。

この本が有益なのは、加齢による衰えが見られるのは、記憶の特定の分野であると教えてくれるところだ。それは、今あげた「短期記憶」と「エピソード記憶」であり、それ以外の分野、「意味記憶」(知識の記憶)、「プライミング」(知識のネットワーク)、「手続き記憶」(技能の記憶)では、目だった衰えは見られないとのこと。

今やったことを思い出せなかったり、出来事の前後関係を忘れたりすることはインパクトがあるので、まるで記憶全体がダメになったような印象を与える。しかし、しっかり働き続ける部分もあるのだから、安心しなさいと励まされたように思える。

たとえば、こんな風にブログを書くことができるのは、今までの知識や体験の潜在的なネットワークを、新たな出来事と結び付けて、あたらしい発見や納得を付け加えるという作業を行っているからだろう。また、文章を書くという技能を実践しつつ、少しでもそれを上達させているということでもあるだろう。

この二点については、加齢による記憶の低下を言い訳にすることはできないわけである。ちょっと安心したような、それはそれでしんどいような。

 

ゴマダラカミキリとケヤキの木

昼間、玄関の脇の地面に、ゴマダラカミキリが歩いている。今年も、そんな季節になったか。小ぶりの身体だが触覚が長く、見映えのするスタイルだ。黒地に白の斑点模様で、青みがかった光沢のウエットスーツを着込んだような姿だ。甲虫で美しさを感じるのは、他にはクワガタムシタマムシくらいだろう。

少しつついたりして遊んだが、いつまでもそうしているわけにいかないから、玄関脇のケヤキの幹につかまらせると、すたすたを上に登っていった。

しかし、カミキリムシの類は、樹木には害虫のはずだ。家に入って調べると、たくさんの木に食害をもたらすが、ケヤキもその対象になることがわかった。幼虫は幹の中をくいあらし、成虫も葉を食べるらしい。毎年、このあたりに飛んできたのは、ケヤキをねらっていたのだ。

しかし、それがわかっても、初夏の昼間、どこからともなく飛んでくるゴマダラカミキリは、少年の頃からの思い出がある友人だ。いきなり害虫として目の敵にする気はおきない。

とはいえ、樹勢の弱ったケヤキのケアも大切だ。あわてて外に出て、先ほどのゴマダラカミキリの姿を追うが、とっくに幹の上部の葉陰に隠れている。すると、根元近くにも、ゴマダラカミキリがいる。一回り近く大きく、触覚はさほど長くない。こちらは別の個体でメスのようだ。

どうやら、我が家のケヤキは本格的に彼らのえじきとなっているようだ。思わずつかまえて、近所の公園に放してきたが、これからはもっと遠方でリリースしなければいけないと思い直す。

 

 

ある文芸評論家の死

加藤典洋さん(1948-2019)が亡くなった。冥福をお祈りしたい。

90年代に、加藤さんを囲む会みたいな場所で、何度か話を聞いた。その風貌と話しぶりは、いかにも「文芸評論家」という感じで好感をもった。けれど、作品に関しては、当時から僕にはピタッとくるものではなかった。

僕が今でも参加を続けている読書会は、もともと評論家の竹田青嗣さんや加藤さんのファンが始めた集まりが母胎だったから、メンバーには加藤さんの本の編集者もいてファンが多い。それで、課題図書で読む機会があるのだが、ある時期、ゴジラ論を読んで、この先加藤さんの本を読むのはよそう、と決めたことがあった。それほど僕には肌の合わない本だった。だから、翌年また彼の新著が取り上げられたときには、僕は会を欠席するしかなかった。

その後、事情があって読書会を数年間休んだ後、覚悟を決めて参加を再開したばかりの会で、また加藤さんの本にぶつかった。このブログにも感想を書いたが、その時の『敗者の想像力』は、やはり良くなかった。ちょうど、加藤さんの旅行に同行したばかりというファンのメンバーがレポーターだったのに、辛辣な発言を繰り返してしまった記憶がある。

そんな後ろ向きの思い出しかないが、それでも今回、僕なりに加藤さんを振り返りたいという気持ちがあって、書棚から未読のエッセイ集を手に取ってみた。1995年の『この時代の生き方』。幸い、新聞や雑誌に掲載された短めのエッセイがならんでいて、読みやすそうだ。加藤さんの意外な魅力に気づくことになるかもしれない。

しかし。たまたま開いた、わずか4ページのエッセイに、僕はつまずいてしまった。

その「大震災と軽薄短小」という短文で、加藤さんはこんな風に話をすすめる。今回の大震災(阪神淡路大震災のこと)で、マスコミや論壇は、事態の重大さに直面して、それまでのバブルや軽薄短小の時代が終わったかのように論じている。しかし、こうした論調こそ、自分の「思想的敵手」だ。私たちは、バブルを批判すべきなのではなく、今回の事態を受けて、バブルや軽薄短小や平和ボケを引き受けて、それを鍛え直すべきではないか、と。

この文章が書かれてから、四半世紀が過ぎている。加藤さんと、世の論調とのどちらが正しかったのか、勝負は明らかだ。今では、震災を機にバブルと軽薄短小を鍛え直すという奇矯な主張が何を意味するか、想像することすらできない。

多くの論者たちが直観したように、あの震災が一つのメルクマールとなって、その後社会は大きく変質していった。彼らの多くは、震災の現実に向き合い、驚き、呆然とする場所から言葉を発していたのだ。別にバブルや軽薄短小を批判したかったのではなく、それが色あせて見えるしかない場所に立たされていたのだと思う。

一方、加藤さんの立ち位置はどうか。彼は震災の現実に目をやろうとはしない。ただ、右往左往する報道や論題の言葉の行方に目をこらしている。その中で、「思想的敵手」をこしらえ、身をよじるようにして、自分オリジナルの言葉や比喩をつくりだし、それをどうだとばかりに提示しているだけだ。すべて言葉内部の出来事であり、言葉をめぐっての自作自演の身もだえなのだ。

この短いエッセイが、加藤さんを読む本当の最後になるかもしれないと思う。

 

 

恵比須神社の遷座(せんざ)式

旧玉乃井旅館の玄関横に鎮座する恵比須神社。そのホコラの修繕と設置、鳥居の新築が終わり、ご神体を新しいホコラに移す、遷座式が行われた。玉乃井の玄関に紅白の幕を張り、祭壇を設けて、地域の神社の神主さんが祝詞がとなえ、玉ぐしが奉納される。

僕は、ホコラの修繕に関わっただけで、その設置や鳥居の新築には参加できなかった。しかし、小さなホコラ内の天井に張られた木札には、関係者として記名をしていただいた。光栄なことだ。あこがれだった宮大工の見習いをすることもできた。

村々の神社などをお参りすると、堂内に掲示された板に、建設にかかわった関係者の名前が、ずらりと墨書されていたりする。その多くはすでに故人だ。僕がこの世を去った後に、木札の名前を見つけて、思いをはせてくれる人がいるかもしれない。

こうした儀式は、現在の人々のためだけのものではないだろう。何より、過去の人々からのまなざしを受けて成り立つもののような気がする。と同時に、未来の人々のまなざしを意識した営みでもあるだろう。

遷座式は、地域のお年寄りが何名も来られていた。小さな子どもたちも、楽し気に参加していた。儀式後には、飲み物やお菓子、料理が振舞われる。様々な人々の人生が、今この場所で交錯する。

85年前、昭和9年にこのホコラが建てられたときにも、きっと同じような光景が見られたにちがいない。

 

哲学カフェに行ってみた

地元で長くやっている「哲学カフェ」があるというので、知人に誘われて参加してみた。おそらく、そういうものを、成立させたり、運営したりするのはとても難しいだろうと予想はしていたが、やはりなかなかストレスのたまる会だった。

一般的な哲学カフェは、哲学的な知識を伝達したり、哲学問題を議論したりする場所ではない。しかし、名称からそう勘違いして参加する人もいるだろうし、哲学好きの参加者が、「高尚な」議論をしだせば、対話の場は収拾がつかなくなるだろう。僕が参加したカフェは、幸いなことに、この弊害は免れていた。

しかし、人間が集まって話し合う場は、どんなものでも参加者にそれなりのストレスを強いるものだ。その見返りとして、組織目標の作成とか、参加者の情報交換とか懇親とかの成果物が与えられる。読書会では、少なくとも、優れた課題図書の読書体験が得られるし、よくすればその読解のための多少のヒントが得られるかもしれない。

しかし、哲学カフェは、話し合いそのものが焦点化され、目的化される。事前の説明で、結論を出すことではなく、問いを深めるのが目的だと通告されるのだ。テーマはその場で与えられるものだから、誰も本気で考えたいと思っているものではない。とりあえず言ってみた、という言葉の応酬が続くことになる。

話し合い自体が快楽となるのは、気心が知れた友人同士や、問題意識や感覚を共有する知人同士の場合に限られるだろう。知識、経験、感覚がバラバラな参加者同士で、一般的な問題についてであれ議論を交わすのは、おっかなびっくりの慎重なふるまいになる。

終わったあと、目の前に座っていた参加者から、「あれでよかったのですかね」と尋ねられた。比較的熱心に発言していた人だが、初めての参加だという。僕も初めてですと答えたが、彼の感想は、言い得て妙だと思った。おそらく彼も、場の「空気を読む」ことに一生懸命だったのだ。

 

 

 

三題噺の行方

今年になってから、気の合った同世代の友人との勉強会を続けている。月に一回、事前に日にちを決めて、ファミレスで4,5時間話をするだけの気楽な会だ。気楽だから、何の準備もないとただのお話会となってしまう。そこで、お互い、この一カ月の報告もかねて、何か書いたものを持ち寄ることにした。

僕は、一か月分のブログから三つくらいをピックアップして、多少手を加えてA4二枚に収め、それを勉強会のレポートにするようにしている。これなら簡単に、それなりにレジュメらしきものを作ることができる。書き散らしたブログの有効活用にもなる。友人は、たんねんにネットを見るようなタイプではないので、僕のブログには気づいていない。これも幸いだ。

今月は、「『ノンちゃん雲に乗る』」「町家でごろごろする」「コンビニで手塚治虫を読む」の三つの記事を選んでみた。選ぶ観点は、比較的まとまっていて新味があり、友人の関心にもあいそうなもの、ということになる。すると、他意はなかったのだが、三つの文章が、異類(異者)とのかかわりという共通点を持つことに気づいた。

手塚治虫をはじめとする初期の少年漫画が、繰り返し子どもと異類との交渉を描いてきたこと。ノンちゃんが雲の上で出会ったおじいさんもまた、異類といえる。ノンちゃんは異類の住む雲の上から、日常の暮らしを見返して、あらためてその輝きを見直すことになる。現代人にとって、町家などの伝統建築は、もはや異類といえる。しかもそこは、雲のうえのように身体を包み込んでくれる懐かしい時空間だ。座敷に横たわりながら、遠い玄関口に切り取られた往来の日常をながめると、なにげない路上が無性に懐かしい場所に思える。

学者でも専門家でもない僕は、暮らしのなかの驚きや発見をつなげて、すこしづつ了解を深めていくしか方法はない。このレジュメの作成方法は、手がかからないばかりでなく、そんな僕の考えのすすめ方にもかなうような気がしている。

 

 

 

『ノンちゃん 雲に乗る』 石井桃子 1967

子どもの頃と同じ装丁で、今でも書店に並んでいる懐かしい本。これは姉の本だったから、当時僕は読んではいない。聞けば、良い本だから、と父が姉にプレゼントしたらしい。そんな父の想いを想像しながら、読んでみた。

戦前(昭和10年前後か)の東京郊外に住む家族の日常が、物語の舞台だ。それを後から振り返るという、ややとってつけたような形式で書かれているのは、執筆と発表とにタイムラグがある事情を反映しているのだろう。戦時中に執筆されたものが、敗戦後の1947年に出版され、それが1951年に再刊されたのちに、1955年に映画化されている。

このため、現在手に入る1967年の福音館書店版では、後日談の中の時間の経過の記述に、ややつじつまの合わないところがある。また、戦争や敗戦の混乱、戦後復興や高度成長等の社会の激震が、あっさり触れられるだけなのも、物語の主眼がそこにはないためだろう。

しかし、それにしても不思議な構成の物語だ。

ノンちゃんは、家の近くの神社の大木の枝から、池の中に落ちて気を失う。その間、池に映る空の底で雲をあやつる老人に助けられて、雲の上に乗るのだが、そこは白一色の世界で、冒険らしいことは一切おこらない。ただ、ノンちゃんが老人に求められるままに、自分の家族の日常の出来事を話してきかせるだけなのだ。

老人も、楽しそうに話を聞くだけで、ノンちゃんの考えを否定したり、新しい考えを植え付けようとしたりはしない。ただ、この老人は、元気でわんぱくで、外遊びが大好きで、思わずウソをついてしまったり、遊びに夢中で宿題を忘れてしまったりするような子どもが大好きらしい。正直者で優等生のノンちゃんは、そんな老人に反発を感じながらも、少しだけその考えに感化されていく。

こんなわけだから、ノンちゃんが意識を取り戻して、雲の上から戻ってきても、ノンちゃんの世界に新しい何かが付け加わるわけではない。わんぱくな兄ちゃんやガキ大将にもそれぞれの事情と良さがあることに気づいて、ちょっとだけ気持ちが楽になっただけだ。

だから雲の上のことなど、ノンちゃんはやがて忘れてしまう。そうして、激動の時代を経験して大人になったノンちゃんは、雲の上のことを、いつか自分の子どもに話してみたいと思うようになる。作者自身も、戦後復興と高度成長のただなかの社会に向けて、この本を送り届けようと試みる。

伝えたいのは、氷川様と呼ばれる鎮守の森の脇で営まれる、ノンちゃんたち家族の、子どもを大切にし、時に甘やかしていると思われるくらいていねいにかかわる暮らしぶりだろう。日本の神様には堅苦しい教義などはない。村のお地蔵様は子どもと遊ぶのが大好きだという伝承をよく聞くが、雲の上の老人は、そんなおおらかな神様のイメージに通じている。

神様たちは、子どもたちに成長を促したり、未来に顔を向けさせたりはしない。ただ現在を大いに遊べという。近代化と経済成長によって失われたのは、自然環境ばかりではなく、こうした精神的環境なのだ。

もう一つ。僕は大井川歩きを続けるなかで、村のあちこちにある神社やホコラ、石塔は、村人が外部にアクセスするための情報端末であるという仮説をもつようになった。小さな神々は、一人一人の悩みや愚痴の聞き役に徹することで、わずかでも彼らの救いとなっていたのだと思う。ノンちゃんの話を喜んで聞き出し、ノンちゃんに気づきを与えてくれる雲の上の老人は、そんな路傍の神々の姿そのままだ。