『通勤電車で読む詩集』小池昌代編著。NHK出版の生活人新書の一冊として、2009年に発行された後、増刷を重ね、同新書で別のテーマのアンソロジー企画につながっているから、詩の本としては、ヒットしたものなのだろう。
いつもの採点法をざっと使うと、全41編のうち、〇が7篇、△が9編。計16篇の「打率」は4割に近いことになる。特記すべきは、〇が2割近くあることだ。これは、今まで何冊かの詩集を調べてきた経験に照らせば、かなり優秀で満足すべき数字だ。
しかし、である。アンソロジーは、編者である優れた詩人が、えりすぐった作品であるはずだし、「一般読者向け」というハードルもクリアしているはずだ。それで、一読者の基準として面白いと思えた作品が4割に満たないというのでは、一般の世界では、商品としてどうか、ということになりかねない。くりかえしになるが、どうもここらあたりに「現代詩」というものの秘密が隠されているような気がする。
ところで、今回はざっと流し読みしただけだし、〇△式採点法も直観的なものだから、もっと読み込むことで味わいや魅力に気づくのではないか、という反論も考えられる。しかし、僕の乏しい経験の中では、初読でひっかかりのなかった作品が、あとから手のひらをかえしたように魅力的になる、ということはまずない。初読で、何かある、と直観できた作品だけが、繰り返し読むうちに、その何かの正体が明らかになり、魅力にはまるということなら大いにある。
この議論の流れで、先日の現代詩についての読書会で報告することができた「私的な現代詩攻略法」をおさらいしてみたい。(以下の内容は、8月29日の記事と内容的に重複していますが、このところ頭を痛めている問題なのと、表現に多少新味があるので残します)
まずは、読んでまったく魅力が感じられずに、読んで得した、と思えない作品については、スルーを決め込むこと。自分にはまったくよくわからないけれども、このまるでつまらないところに、何か特別な意味があるのではないか、などと考えだしたら、(それはほぼ徒労に終わるので)エネルギーばかり浪費して、詩を読む喜びなどまったくえられない。途中で詩集を投げ出すのが目に見えている。
もともと「打率」が野球並みであることを理解したうえで、自分にとって面白い作品を見つけたら、それを自分なりに評価してみるといい。〇△式評価法は、なんとたったの二段階評価である。「とてもいい」「まあまあいい」のどちらかにわけるくらいなら、誰にでもできるだろう。しかし、これだけでも、前者に何があって、後者に何が不足しているのか、を対象化し分析するきっかけになる。
現代詩は、表現の方法や内容において、作者が圧倒的に主導権をにぎっているジャンルである。(おそらくそこに「低打率」と読者が少ないことの理由があるだろう) 読者が作者の主導権に唯々諾々としたがわなければいけない、という前提に無理がある。現代詩のよい読み手は、おそらく読むことにおいて、作者から主導権を奪い返す工夫を実践しているはずである。作者と読者の抗争のはてに、まれにどちらにとっても満足のいく作品が、あやうい均衡のもとに成立するのだと思う。