4月に自宅の駐車場のブロック塀で車をこすってしまい、修理に出した。この家に住んでから20数年間、おそらく一万回以上駐車場で車を出し入れしてきて、入り口のブロック塀に車体をあてたことは一度もない。
おそらく、ハンドルを切るタイミングとかに、微妙なズレが起きているのだろう。高齢者のアクセルの踏み間違いの事故なども、こうした微妙な失調やズレが積み重なって起きるのだろうと実感する。
六万円の修理費を払い、僕はすっかり反省して、もうこんな間違いはしないはずだった。しかし、いくらもう大丈夫と思っても、自分の身体は新しいステージへと(残念ながら)退化している。無意識にまかせておけば、痛い思いをした自分の身体は同じ危険を回避してくれる、という想定はもう通用しないのだ。
ガガガ。今回は小さな音がする。悪い予感がして車の外に出ると、今回も同じところを小さくこすっている。また何万も費やしたくないし、修理したところでまたこすってしまうかもしれない。
修理用のペンで塗るくらいでごまかすことにした。幸い後輪のホイールケースの縁でそれほど目立たない。
こういう時の対処法は決まっている。身体の衰えを習慣で補うのだ。書庫の出し入れの時のチェックポイントとして、ブロック塀との距離を必ず確認するようにルール化すればよい。
かの岸田秀も言っている。本能の壊れた人類は、そのままでは現実に対応できず生存できないので、疑似本能として、主体の司令塔としての「自我」とルールの体系である「文化」をつくったと。この疑似本能は、状況に応じて絶えず更新される必要があるのだろう。