深田の宿に泊まったのはまったくの偶然だった。旧須恵村に隣接する地域だし、宿の名前も旧須恵村の現町名と同じだから、かつての須恵村をしのぶ旅にはふさわしいだろうと勝手に納得していた。
宿の料理や雰囲気には満足して、翌朝、いつもの習慣で宿の周辺を歩いてみた。朝7時過ぎで、周囲はすっかり白い朝霧に包まれている。小さな川に沿って家が並んでいる集落の道を歩いていると、道の脇に石で組まれた炭窯があったりする。
町の文化財の眼鏡橋を過ぎてそろそろ引き返そうと思ったとき、川の脇の小道を見つけて降りてみることにした。冷たい水に手をつけてみたかったのだ。河原もない小川だが、あまり見慣れない石(この直感は正しかった)がごろごろ落ちているのでひろっていると、堤の上からおじさんに声をかけられた。
不審者だと思われないように事情を説明するが、おじさんはニコニコしている。そして、驚くべきことを教えてくれた。
僕の足元に転がっているのは、銅を高温で製錬するときにできるもの(銅スラグ)で、表面にボコボコ穴が開いていて、ずっしりと重い。この川(銅山川という)の上流に、一時は300人くらいの鉱夫が働く銅山があって、戦時中水害で停止するまで操業していたそうだ。戦後は三井鉱山が調査に入ったが、埋蔵量は横綱級であるものの鉱害の影響で本格的に操業することはできなかったらしい。あとで宿の人に聞くと、今でも川に魚は住めないそうだ。
旧須恵村は、文化人類学者エンブリーの調査で有名になったが、その調査はたまたま実現したことに過ぎない。隣村にだって興味深い歴史や人々の暮らしはあったのだ。そんな当たり前のことを教えられた朝の散歩だった。
おじさんはの実家は宿の隣で、今も川のすぐ脇の白い洋風住宅に住んでいる。昭和20年生まれで、一時仕事で土地を離れたけれども戻って長く住んでいるからこのあたりの事情に詳しいのだろう。
菊が好きで、宗像大社の秋の菊花展には毎年友人たちと来ているというのにも驚いた。偶然でも再会できたらいいと思いつつ、銅スラグを一つお土産に、朝霧のなか宿に戻る。
余談。朝霧の小川の水を触りたいと思ったのは、長塚節の次の名歌が潜在意識に働いたからかもしれない。だとしたら、今回の出来事も文学の効用といえるかも。
「白埴(しらはに)の瓶(かめ)こそよけれ霧ながら朝は冷たき水くみにけり」