大井川通信

大井川あたりの事ども

『忘れられた日本人』 宮本常一 1960

森崎和江聞き書きを読んで、その魅力について考えたときに、次に読んでみようと自然と思いついたのが、この本だった。ずいぶん前に買って拾い読みはしていたのだが、通読したのは今回が初めてだった。通読して、解説で網野義彦が「最高傑作」とほめそやす理由がようやくわかった気がした。

土佐源氏」などのユニークな自分語りの面白さが目を引くが、著者の幅広い経験とそれに基づく深い認識は、この本のすべての記述に埋め込まれている。

たとえば、本書では「世間」という言葉が様々なエピソードを通じて語られている。かつて「世間」は日本の論壇(西洋史阿部謹也ら)において徹底的に批判された概念だった。曰く、日本には「社会」がなく「世間」しかない。当時僕も納得して、その理論を振り回していたが、この本で描かれる豊かな「世間」の意味を検討してみようという試みに出会うことはなかった。

「女の世間」や「世間師」の章で語られているように、村社会の外に広がる「世間」は、旅を通じて体験するもので、新しい知識や人として大切な倫理すらそこから汲み取り、それを村内に持ち帰ることのできる場所だった。また、人間とは別に、亀のような小動物にも独自の「世間」があることが認められていた。

かつて人々は、村や家の中の人と人との結びつきを大切にして生きていたが、それとともに「目に見えぬ神を裏切らぬこと」にも心を砕いていたのだ。これらの要素抜きに「世間」を論じることはできないと、今になって気づく。

「文字を持つ伝承者」の一人は、こんな風に紹介される。

「高木さんはあるくのがすきで、百姓仕事のひまに、家を中心にして方々をあるく。高木さんは足がはやくて、一日に二十里くらいはあるく。朝家を出てからずっと一日あるくこともあるが、汽車で一定のところまでいっておいて、そこから歩いてかえる方法もとる。なるべく同じ道を通らないようにして、好んで小道をゆく。お宮があれば必ずまいり、寺があれば寄ってみる。道ばたでは百姓たちとはなしをする。そういうことが何よりもたのしみだという」「東北の一隅にいても一隅にいるという気がしない。自分のいるところが中心なのだという気がする」

後半の引用は、民俗学をやって自分たちの生活を心置きなく話し合える同士が全国にいることの効用を語る中での言葉だ。

歩く距離では遠く及ばないが、これらが楽しみであることは僕にもよくわかる。大井川歩きの先達の言葉をかみしめながら、僕もよろよろとした歩みを続けたいと思う。