大井川通信

大井川あたりの事ども

『野生の呼び声』 ジャック・ロンドン 1903

思想系読書会の課題図書。メンバーの中でも強面のアメリカ文学者高野さんの選書だ。高野さんは課題を二つあげている。一つは、この小説のもつ「現代的な意義」を示せ、というもの。もう一つは日本の文学(芸術)作品で似ている作品をあげよ、というもの。

正直、戸惑っているのは、選書と課題の意図が読めないのだ。外国文学者にして現役の詩人である高野さんが、なんの狙いもなく、それなりの思想的(文学的)成果物の見込みなく、本の選定と課題の提示をするわけはない。

ところが、ジャック・ロンドン(1876-1916)のこの小説は、とても面白い読み物で、エンターテインメントとしてとても優れているから、物語を楽しむこと以上の特別な深読みをする必要を感じなかったのだ。こういう戸惑いは珍しい。

カリフォルニアの富裕な判事の家で育てられた大型犬(セントバーナードの父とシェパードの母をもつ)のバックは、使用人に盗み出されて、ゴールドラッシュにわくカナダ・アラスカ国境地帯に売られてしまう。

主人が変わるたびに新たな運命に翻弄されるものの、過酷な犬ぞりの任務を通じ、また犬同士の戦いを経て、グループのリーダー犬として成長していく。やがて逆境から救い出してくれた主人と出会い、彼への真の愛情に目覚めるものの、しだいに北方の自然からの「呼び声」によって、自らのうちなる野生の記憶を取り戻していく。

主人の一行から離れたバックは、完全に野生を回復し、戦いののちにオオカミの群れのリーダとして迎え入れられる。もっともバックは、この間、主人たちを襲った原住民に復讐を果たし、主人の死に場所への追悼を忘れることはなかった。

数奇で過酷な運命に翻弄される犬の冒険・成長物語として面白い。バックがとてつもない能力と戦闘力の発揮は、ヒーローものの活劇を見ているみたいで胸がすく。犬も人間も悪役(ヒール)と善玉(ベビーフェイス)がはっきりしているから、肩入れしやすい。主人のソーントンとの深い愛情と信頼関係には、心(俗情?)を動かされる。

もちろん、この面白さを演出しているのは、ある種の通俗化(単純化)であり、そのために犠牲になっているものを指摘することはできるだろう。

主人公のバックはあまりに英雄的に描かれ過ぎているし、自然界の原理も単純な弱肉強食の面ばかりでなく、共生の観点も重要だろう。北方の自然やそこに息づく野生の解釈もロマンティックすぎる。飼い犬が一足飛びに「野生」を回復することなどありえないだろう。また、野生に目覚めたバックも、主人への忠誠など人間に都合のいい部分を残している。

しかし、これらはいわばエンタメにするための意識的な歪曲であり、こうした歪曲の問題性に気づくことが「現代的な意義」というのも違うような気がする。では、いったいこのすこぶる面白い動物物語を今日読むことの意義をどのあたりに求めたらいいのだろうか。

僕は、人間以外の主体を主人公にした物語を読む、という大本の部分にそれを求めたい。人間を主人公にした最高の小説と、人間以外(例えば動植物やモノ、想像上の存在等)を主人公にした通俗小説とでは、どちらに読書の価値があるのか。勝敗は明らかのようだが、あえて後者でしか得られないものが現代では決定的に重要ではないか、という観点だ。

昔話や伝承では、動物たちを主人公にした物語が多いし、現代社会でも子どもたちが読む絵本では、人間以外の存在が主役の話が多い。このありあまる共感能力を極端に減退させたのが、近代以降の大人社会の価値観なのだと思う。

今になって、生態系や自然の危機がようやく切羽詰まったものとして主張されても、自己利益の増殖(損得勘定)を唯一の原理とする人間社会を押しとどめることは難しい。人間以外の他者になりきるという「驚異的な」な能力に気づいて、まずはそれを使ってみることが、問題解決への第一歩でないかと思う。

なお、似ている日本の作品は、漫画や動物文学にあるような気がするが思いつかないので、詩人吉岡実の初期作品「犬の肖像」をあげることにする。