大井川通信

大井川あたりの事ども

歴史の男/カリスマ〇〇(虚勢の論理)

足の養生中のため、またワイドショーネタ。

某アマチュアスポーツ協会の内紛で、会長が辞職に追い込まれた。長年の強権的で横暴な振る舞いが、火をつけたらしい。自らを終身会長にして、補助金を勝手に配分したり、試合でも身びいきな判定を強要したりと、めちゃくちゃだったようだ。

その彼は、テレビのインタビュー等で、自分のことを、世界でカリスマ〇〇と呼ばれて影響力をもっているとか、「歴史の男」だとか、さかんに自己宣伝している。ごく自然な話しぶりだから、常日頃の言動もそんな感じだったのだろう。しかし、テレビは容赦ないから、彼の自己賞賛には、ほとんど根拠も実態もないことを暴いてしまう。

世界で誰もカリスマなんて思っていないし、彼に誇るべき歴史があるわけでもない。しかし、組織の中では、彼の根拠のない高圧的な姿勢が、しだいに彼の都合のいいように人間関係を整序し、上下関係を固定化させて、今の圧倒的な力関係を生み出したのだろう。

かつて批評家の粉川哲夫が、日本の天皇制やそれを支える風土について、「虚勢の論理」という言葉で論じたことがある。「万世一系」とか「皇紀2600年」とかの歴史的事実を度外視した宣伝文句を「虚勢」ととらえる視線が面白かった。(思い当る粉川の本をめくってみたが、その文章は見当たらなかったから、記憶違いかもしれない)

猿山のボスなら、実際の決闘を通じて、組織のリーダーたる実力を示さないといけないだろう。そうではなく、空疎な言葉や宣伝によってまずは「虚勢」を張る者が存在し、その周囲に「虚勢」に恐れをなして頭をたれる者が集まってくる。思い返してみると、僕自身も、世間や会社や様々なグループで、こうした「虚勢」の現場を目の当たりしてきた。否応なくその列に加わってもきた。

 メディアにさらされる彼の姿を、ただ嗤うわけにはいかない。

 

トボトボと歩いてきた自分の中の道を大切にする

昔の手帳の欄外に、メモしていた言葉。鶴見俊輔の言葉なのは間違いないが、今では本の題名もわからないので、確認することはできない。

トボトボと歩いてきて、そして今も歩き続けている道。それは一本道ではなくて、たくさんの分かれ道や寄り道を、突当りや迂回や循環をふくんでいる。複雑に入り組み別れた道の先は、はるか藪の中へ、見知らぬ街の中へ、人々の中へと消えていく。

自分の歩いてきたかすかな足跡を振り返るときに、思い出す詩二編。動物の足跡の詩と人間の足の裏の詩。

 

死んだけもののなかの/死んだけものの土地を/ひとすじの足あとが/あるいて行く 死んだ/けものの足あとで

死んだけものの/わき腹へふれた/生きたけものの土地のなかへ/まぎれもなく足あとは/つづいている 死んだ/けものの足あとのままで (石原吉郎「足あと」)

 

家々の屋根は急傾斜している/それらは谷の斜面に建っている

足のうらも傾いている/かれらの父の代から/祖父の代から/祖父のまた父の代から (丸山薫「風土」)

 

 

『マルクスの根本意想は何であったか』 廣松渉 1994

お盆に偶然、廣松渉の生家跡を訪ねることになった時、出かけに書棚から抜き出した本。この時期は、亡くなった人のことを思い返すのにふさわしい。お盆の習慣がない家に育ったために、今頃になってそんなことに気づく。往復の西鉄電車で、筑後地方の田園風景を眺めながら読んだ。

廣松の訃報に前後して出版された遺著なのだが、読み通したのは初めてだ。東京経済大学マルクス没後100年シンポジウムでの講演録も収録されていて、これは僕も当時聴講していたから、司会の今村先生との掛け合いもなつかしい。

廣松没後すでに四半世紀。独自の哲学体系の構築と呼ばれる仕事はともかく、マルクスに関する著作の方はかつての輝きを失っても仕方がないと思っていた。しかし、かなり武骨な廣松節が、意外にも(今でも・今こそ)リアリティをもって読める、ことに気づいた。

廣松渉が強調するのは、資本の下への労働の「実質的な包摂」といわれる論点だ。「自由な労働者」の「自発的な活動」によって、労働者は資本の体制の部品となっていく。近頃若手の哲学者が、能動でも受動でもない「中動態」を抽象的に論じた本が脚光を浴びているのを見ても、これが今の人々にアクチュアルな論点であることがわかる。

マルクス主義者廣松は、この自発的服従という事態を解消する展望を持っている。もちろん革命を起こせ、という単純なことではない。根本のところで、日常的生活世界の批判的再検討を行う必要があると訴えるのだ。少し長いので、省略して引用する。

「この複雑な間主体的な関係は『我と汝』の関係、愛の関係ということでつかみ取ることはできない。俗に自然界といわれているものまで含めた、われわれの住んでいるこの日常的生活世界というものは、社会的な生産という人間と自然との物質代謝の過程の場面に注目し、階級的対立といった場面まで配視してとらえ返す必要がある。そこに立脚して、自然の問題も、社会の問題も、さらにはもろもろのイデオロギー形態もとらえ直していかないといけない」(220頁)

手前みそにはなるが、住む場所から歩ける範囲の土地で、人間と自然と歴史の営み全体に関わろうという「大井川歩き」にも響いてくる言葉だと感じる。

 

 

『労働者のための漫画の描き方教室』 川崎昌平 2018

とてつもない奇書、というか快著である。今までに読んだどの本にも似ていない。似ているとしたら、白っぽい菓子箱か、弁当箱だろうか。

まず、題名。60年代の左翼運動の時代のにおいがする。しかし、著者はまるで党派的でない。原発反対の人間ならば、むしろ反対の立場に身をおけ、という。搾取を訴えるより感謝を、とも。いずれも漫画を描くためには、という限定がつくが。

80年代だったら、この題名は、おそらく斜に構えた冗談だろう。しかし、著者は大まじめだ。文字通り「労働者」のために、表現手段としてなぜ「漫画」なのか、どのような「漫画」を描くべきなのか、どのように描き続け、どう発表したらいいのか、具体的に懇切丁寧に、しかし大胆に焦点化して、書き尽くしている。これ以上、看板にふさわしい内容はないだろう。

しかし、これはなんなのか。半分くらいまで読んでも、いっこうに漫画にたどりつかない。250頁すぎてはじめて登場する基礎技術が、円を描くこと、である。ところどころさしはさまれる、冗談みたいにスカスカで、面白い・面白くない以前とも思えるような漫画が、本文と並行して、最後まで同じ調子で続いていく。これが、東京芸大の大学院を卒業した著者の本気の漫画であることの驚き。おそらく、漫画に関する本として見た場合に、これほど読者の期待を裏切る本はないのではないか。

にもかかわらず、これは実にすぐれた、美しい本だ。見事なまでに。

人は働かないと食べていけない。そうして、とてつもなく働かされる。働く自分とは別の自分を表現することができたら、それがどんなに救いとなるか、どんなに喜びとなるか、うすうす、あるいははっきりとわかっていても、多くの人たちは、どうしようもなく泣き寝入りしている。そうせざるをえない。

ほとんどすべての表現作品や表現理論は、そうした泣き寝入りとは別の場所で、そんなことを気づきもしないように、表現したり思考したりする特権をぞんぶんに享受する人たちによってつくられている。しかし、著者は否応なく働く現場にいる。そうして、働くことの片隅で表現することの意味と、その方法論を、自らの体験を通して、ほとんど独力で開拓しようとしているのだ。

論述は、おどろくほどていねいで、他の思想家からの引用などは一切ない。しかし、本当に新しいことを考えようとしている本の常として、簡単に頭に入るような内容ではない。ただ大切なことが書かれていることだけは、伝わってくる。

最後まで読み通して、著者の志の高さに涙を流してしまった。圧巻。

 

神隠しをめぐって

山口県で2歳の幼児が行方不明になった、というニュースが連日報道されている。家族にとってはとんでもない事件だが、このネタが全国ニュースで報じられるのはどうかと思っていた。ただ、田舎で2日間も見つからないのは、たぶんもうダメだろうと。

それが今日、山中で見つかったとの報道を見て、心底うれしかった。そんな純粋な善なる思いが、我ながらちょっと不思議だったが。こういうとき、よせばいいのにネットニュースのコメント欄をのぞいてしまう。案の定、家族が「目を離した」ことへの説教のあらし。もっともらしい意見を吐き出す脊髄反射

子育てで、100パーセント目を離さないなんてことはありえない。まして、家の中や、その周辺にいるときには。目を離しても、ほとんど子どもはそこにいる。そこにいなくても、目で追えばその辺にいる。見えなくても、周辺を探し回れば、いつもいる場所にいる。探しても見つからないような迷子となるのは、目を離した千回のうち一回もないだろう。そういうレアケースの内、さらに特別に小さな確率で、ニュースになるような悲惨な事故が生じるのだ。

我が家の二人の子どもも、何度か行方不明になりかけたことがある。それぞれ一回ずつは、大きな事故につながっても仕方がない状況だった。たまたま運が良かったから、今生きているのだ。

ところで、山口の事件で子どもを発見したのは、大分から単身やってきた迷子探しの経験のあるボランティアで、「子どもは必ず上へ上へといく」からと、一人で700メートルばかり山を登ったところで短時間で見つけたという。多人数の捜索範囲の外だったのだろう。こういう時の捜索隊は、迷子の行動心理学といったものを指針にしてはいないのだろうか?

 

『ナンシー関の耳大全77』 武田砂鉄編 2018

面白かった。1993年から2002年の間に雑誌連載され、単行本化されたもののベストセレクションである。大部分が読んだ記憶のあるものだが、時代をおいてあらためてゆったりと活字を組んだ紙面で味わうと、彼女の絶妙ともいえる指摘やこだわりと、それを最小限度の言葉数で伝える文章の芸に圧倒される思いがした。声を出して読み上げて文章をいとおしみたい気さえする。帯にある通り、ナンシー関に「賞味期限」はないのだ。

80年代は、柄谷行人が、僕には特別の書き手だった。90年代は、まちがいなくナンシー関がそうだったと思う。00年代は、やはり内田樹が突出していた。今は、ちょっと名前がでてこない。

かつて社会学者の北田暁大が、『嗤う日本の「ナショナリズム」』(2005)の中で、ナンシーを真正面から取り上げたことがある。読み直してみて、思ったよりいい文書なので引用してみる。ナンシーへの敬意が心地よい。

「ブラウン管前1メートルの世界に広がるリアリティ、そこには無数の欲望と自意識と政治とが交差している・・・ナンシー関という人は、この複雑なリアリティをその強靭な知的体力をもって、ほとんど独力で、批評の対象へと見事に昇華させた」

ナンシーは1962年(なんと七夕)生まれで、僕と半年くらいしか誕生日が違わない。ナンシーを読むと同世代を感じるし、その最良の成果であるような気がする。青森という地方出身であるということも、その思考のすそ野を広くしているだろう。

60年代から80年代までの30年間で、日本の社会はかつてないような劇的な変動と転換をこうむっている。ナンシー関は、テレビの視聴を武器にして、本来ならバラバラに四散してしまう30年間の異質の経験を凝縮し、ぶれない思考や感性の糧にしたのではないか。だから、90年代のテレビや社会の変化に対して、あれほど的確な診断をすることができたのだと思う。

若い編者による解説は、ナンシー関へのリスペクトにあふれているが、ちょっとガチガチで芸が不足している印象。(たかが)中山秀征へのしつこい攻撃などは、かえってナンシーのテキストを読み手から遠ざけてしまうと思うのだが。

 

廣松渉の生家跡再訪

10年ほど前に、廣松渉の小学校時代について聞き取りをした。上司が廣松と同郷で、たまたま上司の母親が小学校の同級生だったのだ。その時のエピソードは「哲学者廣松渉の少年時代」というタイトルで、ブログに載せている。

昨年末に上司のお母様が83歳で亡くなられて、初盆のお参りに伺った。お供え物といっしょに、青年時代の廣松渉の顔写真を表紙に載せた文庫本(小林敏明の廣松論)をそっと仏前に供えた。

帰りがけ、10年前案内してもらった生家跡(厳密には少年期を暮らした家)を、一人で訪ねてみる。あらためて、クリーク(水路)の多さが目をひく。西鉄蒲池駅のホームも、クリークをまたいでいるのだ。

そのクリークもきれいに整備をされ、明るい水郷地帯には、新しい住宅も立ち並んでいる。その中で蒲生(かもう)町の廣松の生家跡付近だけは、こんもりと薄暗い路地のまま取り残されていることに気づく。廣松姓の馬喰(ばくろう)を業とする家が集まっており、古い馬小屋や空き地につながれた馬の姿が目立つ。

前回教えてもらった生家跡は、もう記憶があいまいになっている。思い切って、クリークに面した古い家の網戸越しに声をかけてみる。老夫婦が顔を出して、水たまりのような水路の向こうの藪を指さして、そこに家があったと教えてくれた。地元出身の名士のことは、ばくぜんとながら意識しているようだった。

13日は盆の入り。廣松渉の魂も、近くに戻っているかもしれない。帰り、10年前と同じく廣松宝来堂のお饅頭を買う。40度近い炎天下に汗を流しながら、少年廣松が歩いた道を蒲池駅まで歩く。

 

 

ooigawa1212.hatenablog.com

 

 

ツクツクホウシの聞きなし

以前にも書いたが、僕の特技の中に、ツクツクホウシの鳴きまねができるというのがある。小学校のある夏の自由研究で、ツクツクホウシの鳴き方の調査をしたために、すっかり身についてしまったのだ。

ある時、得意になって鳴きまねを披露しているときに、誰かから、ツクツクホウシが鳴くのは夏の終わりだと指摘されて、びくっとなった。確かに、家の近所でもツクツクホウシが鳴きだすのはお盆過ぎだ。今年もまだ、クマゼミアブラゼミばかりで、ほとんど耳にしていない。小学生だった僕は、夏休みの終わりに駆け込みで研究を思い立ったのだろう。あまり自慢できることでもないな、と気づいたのだ。

ところで、ツクツクホウシの聞きなしだが、泉麻人の本に見つけて驚いたのだが、その後、小説家の梶井基次郎が『城のある町にて』(1925)で試みていることに気づいた。試しにそれぞれの聞きなしを転記してみる。

「僕」 ジーツクツク、オーシーンツクツク(繰返し多)、モーイーヨー(繰返し少)、ジー

「泉」 ジュウジュウジュウ、オシーツクツク(繰返し多)、オシホー(繰返し少)、ジュウウウ

「梶」 チュクチュクチュク、オーシ・チュクチュク(繰返し多)、スットコチーヨ(繰返し少)、ジー

ところで、僕の職場近くの松林では、毎年7月初めにツクツクホウシが鳴き始めて、7月末には、あちこちで盛んに鳴きだしており、10月の初めまで鳴き声を聞くことができる。これは、たまたまなのか、あるいは松林と何か関係があるのだろうか。

 

教祖の自伝

オウム事件の頃だったと思う。高校生の知り合いがいたのだが、彼は、当時オウムのライバル教団と目されていた教団に入れあげていた。今でもそうだが、出版活動を布教の武器にしている団体だ。

地元の進学校に通っているその若い知人には、何回か直接話したり、手紙を書いたりして、やんわりその教団や、宗教一般の問題点を訴えて、できたら距離をとってほしいと伝えたと思う。彼が現役で東京大学に進学したあとも、連絡をもらったりしたが、結局彼は「信仰」を捨てることなく、そのままになってしまった。

あの真面目で、ちょっと不器用な若者はどうしているだろうか。教団にとっては使い勝手のいい存在だろうから、宗教から離れてはいないかもしれないなどと、時々は思い出してきた。それで、今回ふと、彼の名前をネットで検索してみたのだ。

半ば予想していたことだが、彼の名前は、教団の出版物の中などに見ることができた。どうやら教団関連の学校の教員をしてもいるようだ。それはそれで一貫した生き方だと、ちょっと感心してしまった。ところで、何年か前に彼の論文が教団で表彰を受けたという情報もネットにはある。しかし、その題名を見て、僕には思うところがあった。

彼とやり取りしている時、僕も教団の基本文献を読んで、そこに大きな穴を見つけた。教祖は、公刊された自伝を書き換えているのだ。初めは、矮小で悩める青年としての自分の経歴を描き、教団が勢力を得た後は、非の打ち所の無いエリートとして経歴を書き換えている。言葉の信頼性というレベルで、これはダメだろう、と彼に話したのだ。僕は、決定的な批判ができたような気がした。彼は、格別こたえたという風でもなかったが、説得力のある反論は聞けなかったと記憶している。

彼の受賞論文は、僕が指摘した書き換え前の自伝を取り上げて、教祖の自伝の宗教的機能を論じたもののようだ。おそらく、矛盾に見えるところに解釈を加え、正当化するような論文なのだろう。教団の学者として、それは必要な作業だろうし、教団からも歓迎される内容なのにちがいない。教義の外にいる者にとっては、何の意味もない神学であったとしても。

おそらく、あのときの小さな「論争」の火種が、彼の心の中で消えずに残っていたのだろう。そう考えて、僕はすこしうれしくなった。


 

天保通宝の来歴

少し前から、お財布に天保通宝を入れてある。なぜそんなことを思いついたのか、はっきりと覚えていない。ただ、生まれた時代が違っても、同じコインということで、小銭入れの中でよくなじんでいるのに驚いている。

レジの時に、500円玉の代わりに出しても良さそうな気さえする。さすがにそれはしないが、職場でお弁当代の支払いのときに若い職員にふざけて出したら、心底驚かれた。百円玉を二枚並べたよりも大きい楕円形の分厚い体躯は、コインの王者の貫禄がある。どうりで、子どもの頃あこがれたはずだ。

この天保通宝を手に入れた時のことはよく覚えている。(ほんのひと月前の事情は忘れているのに) 南武線谷保駅近くの踏切の前に、「国立スタンプ」という古銭と切手を扱う店があった。そこの棚にこの天保通宝があったのだが、当時たしか350円で、それは小学生だった僕の一カ月のお小遣いくらいの値段だった。両親の許可をもらって、家族で、谷保の神社や田んぼの方に散歩に行くついでに、購入したのだ。明るい谷保の自然の中を、ウキウキした気持ちで歩いたことをよく覚えている。

その後、大人になってもう少し高価な古銭に手を出したりもしたが、この天保通宝ほど思い出が刻まれた大切な古銭はない。おかげで、近ごろ少し金運も上昇したような。