大井川通信

大井川あたりの事ども

ゴーストハウスの神様

小泉八雲の「生神」(原題は「A Living God」)というエッセイを読む。

村人を津波から救い、生きているうちに神様としてまつられた村の長者のエピソードがメインなのだが、前半は、神社論になっていて、それがとても面白い。

まず、神社の建物について、その建築様式が放つ魅力について語る。その建物の「不思議な、妖しい感じ」をなんとか理論づけてみたいと八雲は語る。子どもの頃から古建築の造形の魅力に取りつかれ、それをぜひ言葉で表現してみたいと思っている僕には、とても共感できる考えだ。

八雲は、神社のやしろのことを、templeや shrineという言葉よりも、霊の家(ghost‐house)と訳した方が、西洋人にはよく伝わるだろうという。実際に日本の神々の中には、かつて実際に生きていた人間も多く含まれているのだからと。そのうちまだ生きているうちから祀られるのが、このエッセイの主題の生神様なのだ。

確かに大井村でも、鎮守の和歌神社は柿本人麻呂を祀っているし、平知様は平家の武将を祀っており、信仰上、他の神話上の神様よりも重きをなしている。

ただこうした知識はすこし調べればだれにも手に入れられることだろう。八雲のすごいのはここからだ。彼は神社に参拝すると何者かに乗り移られる心持がするといい、じっさいに自分が霊となって、神社の神になったところを想像するのだ。

神である自分の前に、村の善男善女がお参りにきて、様々な願い事をする。そのたびに、かつて遠い昔、自分が恋をしたり子育てをしたことを思い出す。目の前で狛犬が古びて美しい苔に包まれるの見ているうちに、それが歳月の重みで壊れると、真新しい狛犬が奉納される。

まるで、タイムマシーンに乗りこんで世界を見ているようだ。僕も神社のタイムカプセルとしての機能に気づいてはいたが、神様に同一化して、そこから外の世界をながめてみるという発想はなかった。この短いエッセイからも、八雲の日本理解の深さをうかがい知ることができる。