大井川通信

大井川あたりの事ども

『運命』 国木田独歩 1906

国木田独歩(1871-1908)の第三短編集だが、昨年に岩波文庫の新刊で出版されている。独歩の短編はどれも面白い。小説の巧みさというよりも、作品の根底にある認識の全うさ(プラス芥川の言う「柔かい心臓」)において際立っている。

『悪魔』(1903)は、田舎の自然を舞台にして、若い知識人たちのキリスト教信仰の受容をめぐる葛藤を描いている。神や悪魔が深刻な主題になっているのはヘルマン・ヘッセの『ダミヤン』と同じだ。しかし両者が問題にしていることには、微妙なズレがある。西欧と日本における信仰の差異を正確にとらえたのは、独歩自身が、この問題に誠実に向き合っていたためだろう。

『ダミヤン』では、広い意味で神への信仰という態度は揺るがない。ただ信仰上正しいとされる態度からはみ出す部分(性愛や邪悪さ)にも誠実であるほかないために、聖と俗(悪魔)を包含するような神の到来を待望し、そのために自己の内面をきびしく見つめようとする。

一方、『悪魔』の主人公謙輔は、神への信仰それ自体(ヘッセのいう「内面への道」)を疑わしいとする。神への信仰に対抗するものは複数ある。神が不在の全くの暗黒や虚無の世界(これは『ダミヤン』ではそもそも想定されていないだろう)がそうだし、世間的な価値(貨幣等)をあがめる態度もそうだろう。謙輔が希望を見出すのは彼が「天地存在」と呼ぶ体験だ。自己と天地(宇宙)とが直につながるような経験だが、これははかなく得難いものだ。

謙輔が「悪魔」を自称するのは、神と悪魔の二元論にとらわれているためではなく、神と信仰に対する様々な態度(天地存在も含めて)のどれに対しても疑いをもち没入することができない中途半端さを自覚しているためだ。

小説読みの達人荒川洋治は、「若き牧師の出現による心の渦巻きを新形式でつづる。読むたびに、底深い印象がある。このあとの日本文学にはない破格の名編」と絶賛するが、なるほど一読でこの含蓄を引き出すことは難しいだろう。

6月23日は独歩の忌日だから、今まで書いた記事を張り付けておこう。

 

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