大井川通信

大井川あたりの事ども

動坂と八幡坂

東京の田端に行った。芥川の屋敷跡は、駅のすぐ近くの住宅街にあった。こんなに近いなら大学時代にでも見ておけばよかったと思ったが、早稲田の漱石山房跡すらのぞかなかったのだから仕方がない。

芥川が歩いた道をたどるのは楽しい。田端文士村記念館でもらった文学散歩の地図からははみ出すが、動坂(どうざか)まで歩いて坂上の公園まで上って下りてくる。『年末の一日』では、芥川が若い記者を漱石の墓に案内する際に、生き帰りに歩いたのがこの坂だ。雑司ヶ谷の墓地で漱石の墓は容易に見つからなかった。「動坂の狭苦しい往来」という記述があるが、今は車道が拡幅されて広々としている。

その動坂を下った道は、今は田端駅に向かい両側にコンクリートの高い壁で仕切られた切通になってさらに下っている。芥川の屋敷跡はその右手の高台にあり、左手の高台には神社と墓所がある。かつては両側の高台はつながっていて、動坂を降りたあとの道はまた上り坂になって、芥川の住むあたりの丘に続いていたのだろう。これが「墓地裏の八幡坂」で、小品『年末の一日』のクライマックスの舞台だ。

「動坂の往来は時刻柄だけに前よりも一層混雑してゐた。が、庚申堂を通り過ぎると、人通りもだんだん減りはじめた。僕は受け身になりきつたまま、爪先ばかりを見るやうに風立った路を歩いて行つた。すると墓地裏の八幡坂の下に箱車を引いた男が一人、梶棒に手をかけて休んでいた」

荷車には「東京胞衣(えな)会社」と書かれて、胎児の胎盤などを運んでいるものだった。(芥川全集の注によると、実際に田端の崖上に胞衣埋葬地があったそうだ)芥川は男に声をかけて、後ろから荷車を押す役をかってでる。そしてラストの一文。

「北風は長い坂の上から時々まっ直に吹き下ろして来た。墓地の樹木もその度にさあつと葉の落ちた梢を鳴らした。僕はかう言ふ薄暗がりの中に妙な興奮を感じながら、まるで僕自身と闘ふやうに一心に箱車を押しつづけて行つた。・・・」

今でも墓地は切通の車道の崖の上にわずかな木々とともに押し込まれるようにして残っている。ところで、僕にとってこのシーンが忘れがたいのは、亡くなった近代文学研究者の佐藤泰正先生の解釈を聞いたからだ。

今から30年以上前だが、一人暮らしをしていた北九州市八幡の三ヶ森のアパート近くの小さな教会に、佐藤先生が来て、芥川の講演をした。正式に礼拝した後の会で、講演目当てで聖書など持たない僕にはずいぶん場違いな感じだった。佐藤先生の『年末の一日』の解釈はこうだ。

若い芥川は、漱石から技術に走らず「人間を押せ」というアドバイスを受ける。しかし結果として漱石のアドバイスを見失った芥川は、雑司ヶ谷の墓地で漱石の墓をなかなか見つけることができない。その帰り道、人間ではなく人間の抜けガラ(胎盤等)をひたすら押している自分の姿に気づく。

佐藤先生によれば、芥川が自分の文学的な人生を悔恨とともに見つめなおしている作品ということになる。やや出来過ぎな感じもあるが、何気ない身辺雑記を読み解く解釈の鋭さに当時驚いた記憶がある。芥川の自死の前年に発表された小説であることを思えば、なおさら坂道で格闘する主人公の姿は悲壮だ。

羽田に行く前の短い時間で、大正末年の精神のドラマの現場(大きく改変されているとはいえ)をたどれたのは収穫だった。

 

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くりばやしの餃子に歓喜する

僕には食へのこだわりはほとんどない。こだわってもせいぜいB級グルメで、それもごく少数だからすでにネタは尽きている。そう思っていた。

時は35年前にさかのぼる。僕は新採で入った会社を辞めて実家に戻り、八王子で塾講師をやっていた。父親はリーカーミシンを定年退職し、知り合いのつてで大國魂神社の駐車場の管理の仕事をしていた。

大國魂神社の参道にはケヤキ並木が続いていたが、道の東側には狭苦しい商店街の路地が広がっていた。その中に持ち帰り餃子の専門店があった。僕は父に教えてもらって、たちまち気に入ってしまった。とびきり大きな餃子に旨味のあるアンがぎっしり詰まっていて皮がもちもちなのだ。

姉の記憶では、父がお土産に買ってくることもあるくらいお気に入りだったそうだ。また、ある時父はその餃子を食べさせる店で待たされるか何かで怒ってしまい、それで持ち帰りの店にも気まずくて行けなくなってしまったという。以後は母に買うのを頼んでいたらしい。

このエピソードは少し釈然としないところがある。ネット情報を見ると、たしかに府中には少し離れた場所に同系列の中華料理店があったようだが、仮に父親がそこに入りづらくなっても、別店舗の持ち帰り店の利用は支障がなかったはずだ。おそらく、父親が怒ってしまったのは、持ち帰り店の方の順番待ちか何かが原因ではなかったのか。

この父親のエピソードは、僕には少し安心できるものだった。若いころとても短気だった父は、老年に入るとすいぶん穏やかになったように見えた。父親の短気を引き継いだ僕は、今でもカッとなって怒りをコントロールできないことがある。あの父親だって穏やかになったのに、と残念に思っていた。

ところが姉から聞いた話では、父親が餃子のお店で怒ってしまったのは、ちょうど定年後の僕くらいの年齢の時だ。親父よ、やっぱりそうか。今からでも「老害」を治すことができれば、父親に後れをとる事態はさけることができる。がんばろう。

閑話休題。1990年に僕は福岡で就職して東京を去り、その6年後の府中伊勢丹の開店にともなって商店街の再開発が行われたから、僕の認識では餃子のお店は閉店したものとばかり思っていた。隣町とはいえ帰省の時に出かける用事も多くはないから、餃子のことはすっかり忘れていたのだ。

今回、姉と国立駅前で待ち合わせて、そのあと府中の美術館にでかけようという話になった。バスの道中の会話で、偶然餃子の話題になって、あの餃子のお店が新しい商業ビルに入っていることを教えられた。なんでそんな重要なことをと思ったが、姉にしても新店舗を発見したのは比較的近年のようだし、そもそも僕が好きだったことも知らなかっただろう。

もう店名などは忘れていたが、ガラスケースごしのまぶしい姿は間違えようがない。口に広がる触感とうま味、ニンニクの香りはまさに思い出そのままだ。ネットでみると「くりばやしの餃子」は府中市民のソウルフードとして、70年にわたって地元で愛され続けてきたらしい。

うかつだった。こんなとてつもなく旨いものを食べる機会を逃し続けてきたとは。お土産を父親の仏壇に供えると、なんだか父親もうれしそうだ。これ、これ、と。

 

 

 

 

道玄坂の100年

父親は渋谷道玄坂の生まれだ。誕生日が大正13年(1923年)の3月18日だから、今日でちょうど満100歳となる。亡くなったのは2006年で82歳の時だったが、今年は生誕100年のお祝いをしようと姉と話していた。

夏目漱石の『夢十夜』の第一夜に、100年経ったら会いに来ますという言葉を信じて女の墓の前で待ち続けた男のもとに、100年目に白い百合の花が咲くというエピソードがある。100年というのは、大方の人間にとってぎりぎり手の届かない時間幅だから、永遠へと開かれているイメージがある。だから、どこかロマンティックな思いを誘うのだろう。今は100歳を迎える人も珍しくないが、100年前の記憶を持っている人はまれだ。

昨年の9月は関東大震災100年が話題になっていたが、祖母は父親がお腹にいた状態で被災し逃げ惑ったそうだ。出生は道玄坂だが、戦前の間に家族は何回か転居したらしい。姉の都合で、埼玉の金子にある霊園へのお墓参りが前日の17日となったので、100年目の今日は、渋谷道玄坂に行ってみることにした。

今の渋谷は大改造中で、駅は迷路のようだ。なんとかハチ公口を見つけ、外国人観光客が歓声をあげるスクランブル交差点を渡り、有名な109ビルの左側を過ぎると、交通量の多い道玄坂の上りがゆるやかなカーブを描いている。父親が生まれた頃は東京の西のはずれの郊外だったはずだが、今ではその頃の面影はまったくないだろう。

僕は、坂を見下ろすビルのカフェに入って、コーヒーを飲む。大震災を乗り越えて生まれた父が、戦争の時代をかろうじて生き延びて、敗戦後の日本でしぶとく生きてくれたおかげで、僕がこの世に存在することができたのだろう。渋谷にあふれる人の波を見ながら、この中に父のことを知る人が(僕以外)誰もいないということを、当たり前でありながらとても不思議なことのように思って、ぼんやりしていた。

 

 

贈与としての学び

姉と父母の墓参りをしてから八王子に寄り、午後に国分寺に戻る。夕方から駅前のデニーズで、かつての同僚である教育学者の大村さんと話をする。

大村さんからは、新著の意図として、図表に頼らず言葉で懇切に説明すること、教育界の目下の流行語である「個別最適化」に対する批評をこめたこと等、興味深い話を聞く。「教える」ことを教えることのパラドックスや、カタカナ概念が根付かない問題、教育行政における優先順位の勘違い等、大学にステージを移したとはいえ、教育界の病根をえぐる議論は相変わらずさえわたっており、頼もしかった。とくに身近に学生や若い研究者と接している経験からの、「学び」の変質の指摘は刺激になった。

今回僕が大村さんに問いかけたかったことは二つある。

一つ目は、新著の中でも「共同体感覚」と総括される教育の中身に関する扱いだ。これらは、慣習や社会生活のルールという次元を超えて理念として高める必要があるのではないか、という点。近年もてはやされている欧米由来の「自由」に匹敵するような原理としてとらえなおさないと、様々な不都合が生じるだろう。(たとえば、皮膚感覚として了解が難しいはずの「自由」をわかるとしてしまう自己欺瞞が、わかる・わからないという感覚を壊してしまうのではないか、というポイントは大村さんも同意してくれたように思う)

二つ目は、これに関連して、大村さん自体の学びが、「自由」よりも「共同体感覚」に根差したものではないかという問いだ。大村さん自身を今のポジションまで引き上げた独自で魅力ある(この意味で未来的な)学びのスタイルは何に由来するのか。

大村さんの幅広い関心領域は、大学や研究サークルや付属小等の環境でその都度与えられたものを意欲的に受け取ったことに基づいている。一方、大村さんへの高い評価は、幅広く学び取ったものを、その都度の惜しみなく手渡すという態度に基づくことを、大村さんの話から確認することができた。

自分の自由な興味関心を出発点にして、より差異化、細分化された領域でオリジナルな研究成果を生み出すという公認された学びのスタイルとは、およそイメージの違うものが、大村さんの学びの真相にはあるような気がする。

与えられたものをよりよいものにつくりかえ、今度はそれを与え返していく学び。恩と恩返し、あるいは恩送りとしての学び。贈与構造の中での学び。学び自体が欧米由来の分析的で反省的な手法を使いこなすものであっても、その根底に豊かな「共同体感覚」が息づいていることは間違いないように思える。

 

 

『真贋』 吉本隆明 2007

吉本隆明(1924-2012)の忌日(横超忌)が旅行中だったので、新刊書店で手に入る文庫本を見つけて、読んでみる。吉本82歳、晩年に多かったインタビュー本だ。体調を悪くしてからのこの手の本づくりを批判している人もあったと思うが、実際に読むとその批判の意味がわかった気がした。

「どんな人生にも役に立つ究極の本です」という大げさなコピーの帯の裏には、吉本ばななの「自分の親の本だということをのめりこんだ。この本を持っていれば普通の意味での迷いは消える。自分の人生に寄り添ってくれる稀有な本だった」という賛辞が引用されている。実の娘がここまで書くのだから、いい本なのだろうと期待は高まる。

ところが、とてもじゃないが、帯の言葉に釣り合うような本ではなかった。むしろ吉本の良いところを見つけるのが難しい本だった。昔からの愛読者なら、吉本のわかりやすいインタビューは難解な著作への入り口として歓迎されていただろう。いろいろな深読みの対象になった。

ところが、このインタビュー当時すでに、吉本の仕事の本体はリアリティのあるものとして残ってはいない。その重しが不在の場所では、吉本のしゃべる言葉はそのままの内容で受けとめられるしかない。そうすると自分の経験や価値感を絶対視して振り回す高齢者の放談のように見えてしまうのだ。

もちろん、年齢を重ねれば若い世代とズレていくのは仕方のないことだろう。しかしそのズレを通じてでも届く普遍的な要素があまりに少ない印象なのだ。吉本に先入観のない若い読者が、本の内容にうんざりする表情が目に浮かぶ。

1ページ目から、いじめる方もいじめられる方も「問題児」だというぎょっとする発言が飛び出す。しかも吉本自身はいじめっ子だったというのである。だから、いじめられる子の気持ちがわかるはずもなく、恐縮した雰囲気でからかいやすかったというのが後者が「問題児」であることの説明のすべてだ。これなど、現代の倫理観からはとうてい受け入れられない発言だろう。それも本質を深く考えたうえでの逆説というものではなく、単なる旧世代の日常感覚の垂れ流しという印象なのだ。

吉本の理論的な背景(ヘーゲル主義)がうかがわれる発言もある。人間は動物から離れていくのが本質だから、嫉妬の感情も、外見を気にすることも動物性の表れなので今後消えていくのではないかという奇妙な診断だ。吉本らしいといえばそうだが、納得できる見解ではない。

その時代時代でみんなが重要だと思っていることに自分を近づけることを大切にするという言葉には、吉本らしい思想原則(いわゆる「大衆の原像」論)を読むことができるが、こんなふうに平易に言い換えるとその核心がとけてなくなってしまう気さえする。

そのあとに続けて、自分の身体の衰えや奥さんの病気、子どもの生活を懸念し、考える(書く)ことで解決を模索するという方法が書かれているが、これはとてもまっとうなことだ。そのまっとうさを大切にするということなのだろうが、一級の思想家の知恵として少し物足りない気がする。

往時の吉本思想の魅力とは、本人の鋭利な思い込みと、一部読者の過剰な評価(一体化)と、戦後社会の急激な変容との三点によって展開される「幻想の三角形」の広がりのダイナミズムにこそあったような気がする。その三角形が消失したあとの吉本の肉声をさらすのは、かなり残酷なことのようにも思えるのだ。

 

 

とんでもはっぷん

職場で40代の同僚が、ある人(年齢は50歳)がよく使う「とんでもはっぷん」という言葉の意味が分からないという話をした。なつかしい言葉だ。しかし、僕にとっても上の世代の人たちが使っていた古い時代の流行語として多少耳になじんでいるだけで、自分で使ったことはないと思う。

「とんでもない」という言葉を面白く言い表しているというくらいの認識で、その謂れも流行の発信源も知らなかった。

今回調べてみると、ネットの辞書には、「とんでもない」と英語のhappenを結び付けた語で、「とんでもない」を強めた言葉という解説がある。昭和25年の流行語というのも、僕の体感でなるほどそれくらいの古さだろうと思う。

ただ意外だったのは、流行の震源地が獅子文六(1893-1969)の小説『自由学校』だということだ。登場人物の一人のセリフだそうだが、作者の造語ではなくて当時若者たちの間で使われていた言葉らしい。

流行語というとテレビによる発信というイメージがあるが当時はまだ放送開始(1955年)の前で、新聞連載小説のセリフに流行語を生みだす力があったのだろう。もっともこの小説は翌年には映画化されて大ヒットしたそうだから、流行に力があったのはむしろ映画の方かもしれない。

 

著者への手紙 ー『クラウド環境の本質を活かす学級・授業づくり』(大村龍太郎 2023)

本のなかで、「丁寧に日々をつむいでいく」という言葉もあって、あらためて共同体的な価値観が大村さんの中に息づいているなと実感しました。人気学者のなかには、一般人に対してたしか「探求的エピステモロジー」なんて無骨なキーワードを投げ出して平気な方もいるなかで、大村さんの「実意丁寧さ」は際立っていると感じました。

しかし、あらためて後半の内容を読むと、小学校教育の公的なプログラムの中に、「助け合う」「感謝する」等の共同体的な価値観が横溢していることに気づかされて、ちょっと不思議な気持ちになりました。

大村さんは、「自由の相互承認」と「共同体感覚」という総括の仕方をしていますが、人間を育てる中で、後者を無視することはできようもないし、実際に現場での存在意義は大きいのだろうと思います。

しかし実践的な意義の大きさにもかかわらず、その原理的な追求がなされていないのではないかという気がします。この「共同体感覚」を原理的な形で徹底して把握しているのが江戸末期の民衆宗教(金光教等)ではないかというのが私の見立てです。

たとえば、「学ぶ」というふるまいも普通なら「自由の相互承認」の側に基礎を置いているように見えるけれども、もしかしたら「共同体感覚」の側の比重が大きいのではないか。大村さんの学びの動機やあり方を見ていると、「人と良いかかわりをしたい、良いものを共有したい、そうすることで人々の役に立ちたい」という共同体感覚からきているような気がするのです。

私は最近ようやく鈴木大拙を読むようになって、今になって感心しているのですが、東洋の学びは「人格の完成」を目指すという言い方があって、知識を増やし成果を上げるということだけではなく、大村さんは明らかに東洋的な学びの学徒であるような気がします。私のような年齢の学び手にとっては、ましてなおさらそうです。

鈴木大拙は、世界を股にかけて活躍した人ですが、西洋の世界を分割してみる観方(分割の結果、見ることの精度は高まるが、個同士の対立と抗争が高まる)に対して、東洋的な観方は、世界の分割以前の一の世界に直につながることだといいます。このためには非言語的なアプローチも必要になります。

ひと昔前の自分なら、何馬鹿なことをいっているのだと一蹴してしまいそうですが、これを共同体感覚の原理的な表現と考えると大切なことが言われているような気もします。

近代ヨーロッパの「自由」という原理は、世界を無から何の制約もなく生みだしたというキリスト教の神様をモデルにしたものだろうと思います。しかし神ならぬ人間にそれを持たせた場合には、当然相互の調整が必要になるということでしょう。

一方、日本の神様は民衆宗教的な解釈でいうと「人を助ける」を原理にしていて、我々が前提にしている「共同体感覚」はそれをモデルにしているのだろうと思います。つまり、「自由」なみに、というか日本においては「自由」以上に超越的な根拠をもった概念であるはずなのですが、果たしてそういう把握はあるのだろうか。

大村さんの今度の本で、教員と子どもの学びの「同型性」をいいその「感染」の効果をうたったところや、教員の新しい環境への「慣れ」の必要性を指摘したところ(現場への知識の押し付けが教員のモチベーションを減退させる等の指摘など教員の身体性への着目も)が、現場にとって「限界効用」が一番高い、つまりありがたく役に立つ理論化、概念化であると思います。

これは、教員同士あるいは教員と子どもの間の「共同体感覚」についての実践的な把握といっていいでしょう。しかし、こういういわば当たり前なことが従来十分に概念化されてこなかったのはなぜなのか。「共同体感覚」を分析的に操作可能な、従属的なものとみて、それを自分たちが当事者として内側から生きるべき価値や原理として把握しようとしてこなかったことが大きな原因であるような気がします。

 

 

 

サークルあれこれ(その5 ビブリオバトルクラブ)

地元でビブリオバトル大会を開くための団体。公的な補助金を受けて活動資金に充てているが、メンバー4人の活動は完全なボランティアだ。僕は数年間ビブリオバトルの参加者としてかかわって、声がかかり昨年から正式メンバーになった。

読書会や勉強会は、単純に本が読みたいから、勉強したいから参加したり運営したりするものだろう。しかし、ビブリオバトルの運営は完全に裏方の仕事になる。だからメンバーはもともと市民活動、コミュニティのための活動に関心のある人たちだ。そもそも本が好きなので本に関わる活動がしたいということもあるだろうが、参加者が喜ぶ姿をモチベーションにしている。

僕は元公務員でイベントや研修会の運営側の仕事をしていたから、彼ら彼女らがまったくボランティアでビブリオバトルを担っていることに頭が下がる思いだ。全国的にはどうやら、図書館関係者が主体となって、市民を巻き込んでビブリオバトルを実施するというのが一般的な形態のようだ。僕もこれは本来図書館の仕事だと思えてしまう。

図書館側から委託されてビブリオバトルを開く。全く悪気はないのだが、図書館司書から当日は振替勤務で参加しますといわれたときには、ガクッとなってしまった。専門的な役割をボランティアの市民が担い、給与をもらっている司書が後方で待機している。自分のかつての仕事ぶりを反省する教材になった。もはや遅いけれども。

5年前、図書館司書の資格を大学の通信教育で取得したとき、図書館の実地調査とその課題解決のための提案という難しいレポート課題があった。エビデンスのない提案は突き返されてしまう。

僕は大都市周辺の小規模の公立図書館を調査対象にした。小中学校とは連携して子どもたちには働きかけているが、その後が弱い。読書会の開催地はたいてい大都市なので、公立図書館が大人向けの読書会やビブリオバトルを主催することで、「本の街」としてのアイデンティティを確立し住民を引き付けるという提案内容は悪くなかったのではないかと今でも思っている。

僕が読書会活動をしていることを知ったメンバーからのリクエストで、とりあえず身内で手軽にオンライン読書会を始めることになった。ビブリオバトルのチャンプ本等をメンバーが選定して、僕が課題本に関するいくつかのお題を事前に出しておいて、順番に口頭で回答してもらう。コミュ力のある人たちだから、とても良い話し合いになって喜ばれた。

僕も娯楽色の強い本の読書(会)は新鮮でよい経験になっている。古典的な定評ある作品を読むことで得るものはもちろん大きいが、現在のベストセラーを読むことで気づかされることもまた別にある。

原則隔月で、昨年は3回開催できた。本好きのメンバーたちにもぜひ読書会の面白さやノウハウを知ってもらいたいと思う。

 

 

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サークルあれこれ(その4 小説読書会M)

2017年の10月に、北九州市の小倉の文学サロン(商店街の中の公的なスペース)で開催されている読書会に顔を出してみた。文学サロンの設立に学生時代の長男がかかわっていたので、どんな場所か確かめてみたいという思いもあったのかもしれない。

ただ、読書会というものが決して簡単なものではないことは、思想系読書会で長年経験していたためにさほど期待せずに参加した。小説を読む読書会のノウハウを学ぶための一回だけの参加のつもりだった。

初回の課題本は、折口信夫の『死者の書』だったと思う。事前にいくつかの「お題」が出されて、それについて期限までレポートを提出し、当日は参加者に全員分のレポートが配布される。各お題は、本の選定者(基本的には常連参加者)と主宰者が考えるが、試験問題のようなものから面白い内容まで様々だ。回答は各人の判断で一言から長文まであるが、数行程度が多い。

会の運営は主宰者か選定者が作者と本について短い紹介をしたあと、お題ごとに順番で全員が事前提出したレポートの内容を説明し、主宰者の司会のもと意見のやりとりがある。これがなかなか面白くて、結局僕は現在にいたるまで参加し続けることになる。思想系の本を読むよりも小説を読む方が意見の交流がしやすいという面もあるが、会の運営方法が優れていることを見逃すことはできないだろう。

読書会にありがちな様々な問題点を上手に回避する仕組みになっているのだ。全員に均等に発言のチャンスがあるので、発言量の多い人の単調な議論に会が独占されるということがない。事前に書いたものに基づく発言だからコンパクトでわかりやすいし、その場で何を言うかを考えるために他の参加者の言葉が耳に入らないということがおきない。

翌月の会はモームの『月と6ペンス』だった。日本文学と外国文学を交互に課題にするというルールも読書範囲を広げる意味でいいし、原則として30年(途中から40年に変更か)前に出版された作品に限るという条件も、様々な角度からの読みに耐えうる作品がおのずと選ばれるという意味で優れていると思う。現在でも読み継がれている「古典」はそれだけ歴史による評価を経ているからだ。

もともと若い主宰者の友人たちで始めた会のようで、20代や30代の参加者が多いのも新鮮だった。どうしても継続参加する常連は自分をはじめ中高年になりがちだが、それでも参加者の年齢的な幅は広い。コロナ禍では、臨機応変にズーム開催に切り替えたりして乗り切ったが、主宰者の結婚、転居等の事情で、現在は基本的に休会中で散発的な開催にとどまっている。

50代半ば過ぎからだったけれども、この会のおかげで僕は小説を読む楽しみを、少年時代以来、あらためて知るようになった。この会と出会わなかったら、僕はほとんど小説を読むことなく人生を終えていただろう。この会と主宰者から受けた恩は大きい。

 

 

 

サークルあれこれ(その3 MMA的勉強会M)

MMAとは、mixed martial arts  の略称で「総合格闘技」のこと。打撃や投技、関節技など様々な技術を駆使して戦う格闘技で、名称も競技としての歴史も比較的新しい。日本では「異種格闘技」の方が耳になじみがあって、比喩としても通りやすいだろう。、この命名はほんの思いつきだ。

閑話休題。この総合格闘技的、あるいは異種格闘技的な勉強会は、もともと安部さんと始めた二人だけの会だ。共通のテーマや課題図書がある勉強会なら複数の人が参加できるが、様々なテーマについて即興で技を繰り出す勉強会は、腕に覚えのない参加者はおいていかれてしまう可能性がある。一対一ならば、相手の反応によって自由に攻め手を変えることができる。

安部さんは格闘技とは無縁の優男だが、美術、文学、映画、音楽、思想等全般についての愛好家だ。様々な人生経験を積み重ねてもいる。2006年の9月の最初の会は、「宗教」のテーマを扱い、「批評」「建築」「夢」と続いた。

時々中断をはさみながら、後期には映写技師の吉田さんも加わってもらい、三人の会となったが、日程等の調整が難しくなって57回で終了。あらたに吉田さんとの二人の会になってからはコロナ禍でも最小限の休みだけで月例開催を堅持して、今月で60回目となる。

安部さんの時は、僕がテーマを決めてレジュメを書き、それをもとに安部さんのフリートークを引き出すというやり方だったが、吉田さんとの会では、お互いが論じたいテーマとレジュメを持ち寄るという方法に落ち着いている。

吉田さんは、映画の専門家だが、漫画、アニメ、テレビ等のサブカルに強く、蔵書家、収集家でもある。独自の感性と思索力の持ち主で、いまだに予想外の引出を開けて驚かされることがある。同世代ということもあり、僕が面白いと思ったネタを遠慮なくぶつけられる相手だ。

相手にさえ恵まれれば、この形式の勉強会は内容、日時、場所も機動的に設定できて、なおかつ満足度も高い。仲の良い友人同士が、月に一度お茶会をして会話を楽しむのと同じように見えるかもしれないけれども。